第163話 薄く化ける違和感

「戻りたくないわけじゃないが……」

 私が答えあぐねていると、六谷は重ねて、畳み掛けてきた。

「死にかけてここに来たんだから、もう一度死にかけたら戻れる、なんていうのは簡単に試せないにしても、他にも何かあるでしょ。文献を当たるとか、交通事故に遭った場所に行ってみるとか」

 非難がましく言われ、こちらも考えた。自分は天瀬を守るという使命を感じているから、当分戻るつもりはないんだと断りを入れておこうか。

 再び考える時間を取って、天瀬美穂を助ける云々の点は除き、使命があるんだということだけ答えよう、そう決めた矢先。

「あ、いた。岸先生!」

 吉見先生に見付かったようだ。声のした方角を振り向くと、彼女が軽く息を弾ませながらあっという間に駆け寄ってくる。――ん? 何か、どことなく違和感が。

「こんなところにいたんですか。探しましたよ」

「すみません。もうそろそろ合流しないとまずいですかね」

 六谷に密かに目配せしながら、椅子から腰を上げた。吉見先生は「まだ少しありますけど」と言ってから、六谷の方へ意識を向ける。

「六谷君、具合はどう? まだしんどい?」

「うーん……だいぶましになった。けど、まだちょっとおなかの具合が不安かも」

 子供らしく答える六谷。吉見先生は一定の距離を保ちつつ、重ねて言った。

「先生がお熱、計っていいかな」

「別にかまわないよ」

「ほんと? 匂いはもう平気なんだ?」

 あっ。

 当人の言葉を耳にして、私はさっき感じた違和感の正体にやっと思い当たった。

 吉見先生、化粧が変わっているみたいだ。きっと、し直してきたに違いない。化粧セットをどの程度持ち歩いているのか知らないけれども、普通は化粧直しと言っても、付け加えるための物のはず。それを先生は明らかに薄くしてきた。どこかの洗面台をがっつり占領して、結構時間が掛かったろうに……元々濃い方ではないが、ご苦労様です。

 六谷も、化粧の匂いが嫌だと(嘘を)言ったことをすぽんと忘れていたみたいで、しばし、目をしばたたかせてきょとんとしていた。私が吉見先生の後ろで、頬におしろいをはたく仕種をやってみせて、ようやく思い出したらしい。

「――あ、はい。だいぶよくなりました。匂いは気にしすぎでした。ごめんなさい」

「いいのよ。先生も気を付けるから。さあて、じゃあ、体温計をと」

 ポーチを探ろうとした吉見先生をとどめて、私はポケットに差していた電子体温計を差し出した。

「これで」

「ああ、お渡ししていたんでしたわね。でも、いいです。出したついでに、先生も計ってください」

 よかれと思ってやったのだけれど、こちらに返って来てしまった。

 まあ、六谷からの予想の斜め上を行く打ち明け話を聞かされ、さらにあれこれ話し込んだから、興奮したのか身体がほてっている。きっと、体温も三十六度台になっているんじゃないかな。


 その後、六谷は体調が回復した(ことにして)ので、班に戻った。私との会話が中途半端なところで打ち切りになり、ストレスを溜め込んでいるんじゃないかと多少心配していたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 東京に全員無事に帰り着き、駅を出てバスに乗る間際に、彼の方から言ってきた。

「ね。約束は守ったでしょ」

「ああ」

「続きはまた明日……は難しいでしょうから、次にまた学校に来たとき。月曜日にでもお願いします。もっと色々話して、情報を交換していきましょう」

「賛成だ」

 周りの者からは分からぬよう、内緒で同意を交わして、それぞれの帰路に就いた。

 家に辿り着いてからはあまりよく覚えていない。肉体的にも精神的にも疲れ果てていたというのが偽らざる感想である。元気が残っていれば、お隣の脇田のおばさんに今夜の内にお土産を渡そうと考えていたのだが、それすらできなくて、泥のように眠った。


 つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る