第149話 会社と違うところ

「それでまあ、ちょっとくらいなら説得してもいいかな、できたら親御さんと連絡を取れないものかと、お時間をいただいていたところへ、先生からの電話が掛かってきたという次第です」

 すみませんとまた頭を下げる杉野倉。平身低頭されてこちらも怒りをぶつけにくい。が、言うべきことはきっちり言わねばなるまい。一度唇をくっと噛みしめ、気を引き締め直してから、話を始める。

「状況は飲み込めました。杉野倉さんの言動に悪意があったとも申しません。その上で、僕にスカウトだの何だのという話をされても何ら判断はくだせないし、立場上、教え子に、好きなようにしなさいとも言えない」

「やはり反対なさいますか」

「当然です」

 芸能界で活躍する天瀬の姿をちょっとは見てみたい気はするが、想像だけで充分だ。

「保護者の方の連絡先も渡せません。あなたもれっきとした社会人なら分かりますよね」

 修学旅行に児童を連れて行ったら、芸能事務所のスカウトにつかまって、勧誘されて戻って来たなんて、笑い話にもならない、とんだ社会勉強だ。下手すれば、私のというか岸先生の評価が大幅に下がりかねないだろう。

「はい……」

 幸い、杉野倉は終始、おとなしいままだった。最初に芸能事務所と聞いて、怖い人が出て来たらどうしようという恐れが沸き起こらなかったと言えば嘘になる。

「この話はこれで」

 と打ち切って、後腐れのないようにするため伝票の紙を取ろうとした。その腕を、天瀬が押さえる。

「うん? どうした?」

「えっと。岸先生、この人このまま帰しちゃいけないんじゃないかなあって思ったのだけど」

 私の手首をぎゅっと掴んだまま、見上げてくる。

「何で? 理由を聞こう」

「それは……ほんとのこと言ってるかどうか、分からないじゃない」

 言いながら、ちらっと杉野倉の方を一瞥する天瀬。杉野倉は、とんでもないという風に首を横に振る。六谷は目をきょときょとさせ、どう対処していいのか分からず、ただただ成り行きを見守ることに徹する態度だ。

「万が一、嘘をついていたら、この人悪い人だってことになるでしょ。だから、それをあとで調べられるように、名刺をもらっておいたらどうかなって」

「名刺か」

 おうむ返しに呟きつつ、私は内心、考えてみた。天瀬の心理を推し量った、と表現するのがより正確だろう。

 恐らくではあるが、天瀬はスカウトの話に未練を残しているんじゃないかと思う。それなのに、このままだと杉野倉との縁は切れてしまう。岸先生(私)が反対しているのは見れば分かる。だから表立って「話だけでも聞きたい、お父さんお母さんに伝えたい!」とは言い出せない。せめて連絡手段を確保できないか。だったら名刺をもらっておけばいい――そう閃いた彼女は、私を誘導させようと、杉野倉がスカウトマンではなく、女の子を引っ掛けるだけの悪人である可能性を示唆した。

 考えすぎなのだろうか。

「ねえ、いいでしょう?」

 若干、瞳を潤ませてお願いしてくる天瀬。

 手首を通じて伝わってくるそのいつにない力強さが、必死さを表しているように思えてならない。

 ここはびしっと断ち切ってもいいんだけれども、こうもねだられては、私も弱い。推測が当たっているとも限らないし、これ以上の時間の浪費を避けるにはこの子の言う通りにしておこう。

「杉野倉さん。お聞きの通り、こういうことなんですが」

「はあ、まあ、やむを得ないんでしょうね。ここで渡さないと、かえって怪しまれる。文句は言えません」

 スカウトマンは名刺を取り出し、渡して来た。プロダクション名と名前の他、電話番号にメールアドレスなど、細い字で情報がぎっしり記されていた。

 私は会社勤めの経験がなく、名刺の受け取り方には自信がないのだが、一応、押し頂くようなポーズはした。こういう場面でも、最低限のマナーは守りたい。

 ということで、

「僕の方は名刺を作っていないのですが。教師をしていると、ほとんど必要になる場面がないもので」

 と、エクスキューズをしておく。

 実際、この二〇〇四年でも元いた十五年後の世界でも、教師が名刺を作って持っている割合は低いはず。義務はないし、作るなら完全に自腹だし。昔、大先輩に当たるベテラン教師から聞いたところでは、名刺は役職に就いたときに初めて作るものであり、そうでないのに作るのは、周りから反感を買う場合があるとかないとか。まあ、要するに学校によって違うってことらしい。それでも名刺を作る教師のパーセンテージが他の職業に比べて低いのは間違いのない事実だと思う。

 普段は不便を感じないが、こうして会社員や公務員の人と接する機会があると、名刺交換に応じられないのは社会人のマナーとしていいのかなー?と不安にならなくもない。

「メモをしてお渡ししましょうか」

 だからこんな提案もこっちからしてしまう。

 杉野倉は一瞬だけ迷ったようだったが、すぐに首を横に振った。

「いえいえ。ご迷惑を掛けたのは一方的にこちらですので。それに学校名は校章から分かっちゃいますし……」


 つづく

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