第100話 その間違いを正したい

「ありがたさが身にしみる言葉だけど、僕のアパートならあっち。ここは受け持ちの子の家ですが」

「通りを数え間違えたかしら」

 苦しいと分かっていながらもそう返事してしまった。

 岸先生の今の外見、態度、物腰から、この人はもう気付いているのではないかという懸念が一気に強まる。

「――柏木先生」

「はい」

 やや冷たい口ぶりに転じた声で呼ばれ、緊張感が増す。

「僕は人と争って追い詰めるのは苦手です。よく知らない人が相手ならまだしも、知っている人が相手だとなおさらだ」

「何がおっしゃりたいの」

 機械的に問い返すと、岸先生は軽くため息をついて答えた。

「あなたは天瀬美穂に用事があった。そしてさっき、天瀬は電話を取りに家に戻ったんですよね? 嘘の返事で、変にややこしくしないでください。電話相手は僕だったので」

「……」

 息を飲む。これは――詰み?

「だから状況はおおよそ把握できている。偽りの理由付けまでしてあの子を連れ出そうとするとは、一体全体、どんな用事があるのですか」

 柏木は平静さをどうにか保ちつつ、必死になって考えていた。

(岸先生はあの月曜夜のことを思い出したのか、まだ記憶は戻っていないのか。それだけでも知りたい。後者だったら、まだ言い逃れる余地はあるかもしれない。あるいは、弁野さんに連絡できたら、事態は変わるかも)

 柏木が考えるのに集中し、返事をしないでいると、相手はまたため息をついて、別の話を始めた。

「六月になったら、一段と忙しくなるなあ」

「え?」

「六年生には大きな学校行事がある。最大のイベントと言ってもいい、修学旅行が」

「え、ええ。私は前に経験していますが、岸先生は初めてでしたね」

「初めてなのは、子供らにとってもですよね。小学六年生という肩書きが付くのは、基本的に人生で一度きりだ。その中で多分一番楽しみな行事である修学旅行を、無事に始めて、無事に終えて、楽しい思いをしてほしい。柏木先生はそう思いませんか?」

「もちろん思います」

「ですよね。教師じゃなくたって、普通、そう思う。だから今は日々の暮らしが無事に過ぎてくれることを祈ってます。先日、僕が事件に巻き込まれちゃったとき、入院してベッドの上で、はっとなった。もしかしたらこの事件のせいで、修学旅行が延期になったり中止になったりしないだろうな?って。僕が行けなくなるのはまだいい。天瀬だけが行けなくなるとか、冗談じゃない」

「……」

「幸い、そういう話は出なかったので、ほっと胸をなで下ろしました。もちろん、安全面にはより一層の注意を払わねばならないっていう空気ができあがっていますが、あんまりぴりぴりするのもどうかなって。楽しく旅行したいじゃないですか」

「ええ……」

「で、あんな冷や冷やする思いは一度で充分だなと。もう一回似たようなことが起きたら、本当に中止になりかねない。ですからこれ以上、大きなトラブルが起こりませんようにって願ってます。子供達にも先生方にも、そして学校にも」

 ここまで言うと岸先生は厳しかった表情を崩し、少し笑った。

「気持ちが分かる柏木先生なら、力を貸してくれますよね」

「――岸先生。あなたは、その、以前に」

 思い切って尋ねようとするも、踏み切れない。言葉を途切れさせた柏木に、岸先生は頭を左右に振った。

「前のことですか。うーん、実は体調不良で休んだ前後から、熱に浮かされたせいか、記憶がぼんやりして、しかと覚えてないことばかりで」

「な、治りそうなのかしら、それは」

「どうなんだろう? これが適正な判断と言えるのか非常に悩むけれども……多分、と思います」

 答えた岸先生は、左手をきゅっと握って自らの心臓の辺りにあてがった。

(思い出しているけれども、胸の内に仕舞っておく、というサイン?)

 柏木は信じてみよう、そして改心しようと思い始めていた。


 つづく

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