第99話 互いに場違い

「そうか」

 岸先生からは一瞬、息を飲んだかのような気配が電話回線を通してでも感じられた。

「心配掛けたなら謝る。覚えてなかったこともごめん。記憶喪失ついでと言ったら変だけど、もう一つだけ。天瀬さんは教頭と柏木先生が一緒にいるところ、何回ぐらい見たのだろう? 正確な数じゃなくていいから」

「レストランでは火曜に言った一回だけ。あとはゴールデンウィーク中に道の駅で一回。でも別々の車で来ていたから、たまたま会っただけかもしれないよ。って、これも先生に話したんだけどっ」

「悪い悪い。物忘れがひどいと年齢感じるよ」

「充分若いのに何言ってるの」

「他にはないかい?」

「他――関係あるのか確かじゃないけど、デパートで柏木先生が一人でネクタイを買っていて、何日かあとに教頭先生が同じ柄のネクタイをして来ていたのを見たわ。お見舞いに持って行ったんだと思う」

「お見舞いにネクタイはあんまり聞かないな……ま、いい。天瀬さん、この電話に出るために柏木先生に待ってもらってるんだね?」

「そう」

「だったら、長話していることにしていいから、しばらく外に出ないように頼めるかな」

「ええっ、何で?」

 いきなり妙なお願いをされて、思わず電話口で首を傾げた。

「えっと実は――柏木先生に言伝を頼んだというのは、彼女へのサプライズのための嘘なんだ」

「? どういうこと?」

「それはつまり、柏木先生には僕のアパートの近くに来て欲しいんだけど、直接誘ったら警戒されるか、勘付かれる恐れが強い、だろ? だから代わりに天瀬さんの家に向かってもらうように誘導した。ここからそっちの家までは近いからね」

 一応、納得できる説明だ。だが、今度はサプライズの中身が気になってきた。

「どんなサプライズを計画してるの?」

「うーん、秘密なんだ。ここまで来て漏れたら困る」

「えー? 絶対言わないから」

 懇願調のしゃべりになった天瀬だが、岸先生は頑なだった。

「君を信用しないわけじゃないよ。でも、言葉にしなくても、表情に出ちゃうことってないか?」

「それはあると思う」

「うん、だからね、このまま秘密で行きたいんだ」

「……分かった。言う通りにする。あとで、どんなことしてどうなったのか、教えてくださいよ。約束だよ」

「う、うん。分かった。じゃ、これから出発だ」

 電話は慌ただしく切られた。そのことを示すツーツーという音を聞いて、天瀬は嘆息した。

「もう。『忘れっぽくなったからって、約束まで忘れないでよ!』って言うつもりだったのに」


             *           *


 出入りする姿を他人に目撃されたくはないが、今は人通りもないし、賭けに出てよいタイミング。そう判断して、柏木律子は一、二歩進んだ。

 そこへベルを鳴らしたような金属音が届く。ちりんちりんという乾いた音がせわしなく、うるさい。

 音の方を振り返ると、夕闇プラス自らの乗用車の陰になって見えづらかったが、自転車に乗った人がこっちに向かってくるのが分かった。音は文字通り、ベルを使った警告だった。

「あれは……何で?」

 自転車の男が岸先生だと気付いた柏木は、思わず声に出していた。

(偶然じゃないわよね? まさか天瀬さんの方から岸先生に電話で助けを求めたの? どうして怪しまれた? それとも、怪しまれてはなかったけれども、私が言った嘘――預かり物のことを確認するための電話?)

 あれこれ想定した。実際にはほんの数瞬のことで、我に返ったときにはもう岸先生がすぐ前まで来て、まだ動いている自転車を降りるところだった。

「柏木先生。こんなところに来るとは珍しい」

 息を切らせつつも、岸先生は言った。圧力を感じさせる語調だ。普段立ち寄らない“こんなところ”に来た理由を問われたわけではないのに、答えなければならない気分になる。

「私は……岸先生の送り迎えはもうしなくて大丈夫なのかなと確認のために……」


 つづく

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