第97話 人は間違える生き物

 厳密には弁野の妻が資産家の娘で、すでに生前贈与の形で土地を得ていた。そこにアパートを建て、駐車場を作って定期的な収入があるだけでも庶民にはうらやましい限り。加えて、弁野の義理の父が最近亡くなり、妻には遺産がまとまった形で入ったという。弁野が仕事でミスをし出したのはこの頃からで、体調不良を理由に休んではいたが、実際のところ労働意欲が減退しつつあったのだと、当人は分析していた。

 自由に使えるお金を得たことで、弁野の妻は家を空けがちになった。定年後に夫婦で旅行しましょう、その下見にあちこち見てくるわという口実で、気ままな一人旅に出掛けるようになったのだ。

 弁野自身は最初こそ面白くなかったものの、妻の目がないのをいいことに、“遊び”を始めた。柏木との浮気もその一環のつもりだったが、いつの間にか本気に傾いていた。

(資産のこともあるから、奥さんと別れる気はないと思っていた。自分自身、それでもまあしょうがないかと思っていた。だから、夜伽であんな言葉をされたときには驚いたわ)

 冗談交じりに弁野は言っていた。

「妻と別れるのは無理だが、もしも妻が事故か何かでいなくなれば、次は君とだな」

 底意を感じ取った柏木は、その後、あうんの呼吸で弁野と計画を作り上げていった。そして六年生の修学旅行期間中、弁野は夜間、一行から抜けて妻を亡き者にしてから再び合流するという方法がまとまったのだが。

(まさかここに来て、本当に体調不良になるなんて)

 弁野は見た目からの印象とは違って繊細なのか、胃潰瘍などストレスを起因とする病を発症。症状こそ重くないが、このままでは修学旅行への同行を止められ、計画は水泡に帰す可能性が出てきた。

 そんな折、柏木は同僚の岸先生から「教頭先生とのことでお話があるので、時間を作ってもらえませんか」と接触があった。悪い予感を抱いた柏木は返事を保留し、弁野に相談。岸先生の部屋で話し合いに応じ、場合によっては彼から先に葬ろうという方針を決めた。

 そしてあの月曜の夜。柏木は岸の部屋を訪れた。なるべく目撃されぬように注意を払ったが、他の住人に見られていた恐れは排除できない。弁野には近くに車を止めて待機してもらっていたが、同様に、往来を行き交う人から見られた可能性はある。

 岸が率直に言ってきたのは――とあるレストランで柏木と教頭が仲睦まじく二人きりで食事を摂るところを見かけた。もし恋愛感情に基づいてのお付き合いであるなら、婚姻を継続したままの教頭と今、付き合うのは問題があるのでは? 児童や父兄の知るところとなって問われたら説明できない。速やかにやめられないものだろうか――という主旨だった。

 考える猶予をもらう体で一端部屋を出た柏木は、弁野に連絡を取る、状況を伝えると、今さら後に退けないとして、殺害を決意。部屋に戻る際には密かに弁野が入れるよう、玄関の鍵を掛けずにおいた。

 柏木が岸の注意を引きつける間に、弁野が侵入、背後から襲う――殴りつけ、首を絞める――算段だったが、決行した直後に、二人の関係を知っている者が他にもいることを岸が口走る。慌てて中断したが、岸は意識を失い、昏倒した。頬を叩いた程度では起きない。それどころか岸の身体は魂が抜けたように脱力し、動かなかった。

 生死不明の岸がいる部屋に、長々ととどまるのは危険が大きい。物音も立ててしまった。岸が紙片を握りしめているのを見付け、無理に引っ張り出してみたが、紙は破れた上に、期待した情報はそこにはなかった。

 隣室の者に感づかれない内に、二人は現場を去ることにした。時間を十分ほどあけて、先に柏木、あとから弁野が脱出し、どうにか見つからずに済んだようだった。


 つづく

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