第96話 違う人物の視点を取ってみた
「教頭先生……」
天瀬はその単語で、ふっと思い出していた。脳裏のスクリーンに、柏木先生と教頭先生とがちょっといいレストランで、二人掛けのテーブルで向かい合って食事している様が明瞭に投映される。
二人のあの様子を見て、いや、いただきますをしなかった先生達を見て、それだけで軽蔑したことを、まだ打ち明けて謝っていなかったな。言わなきゃばれないけど。岸先生には言ったんだし、ここは正直に伝えようかな――そんな風な考えが頭の中をよぎった。
「天瀬さんは最近、教頭先生や私について、誰かに話さなかった?」
「最近ていつぐらい?」
聞き返した天瀬に先生が答えようとする。その瞬間の顔は、何故だかとても興奮して喜んでいる風に、天瀬の目には写った。
そのとき。
「――あ、電話」
ベルの音に反応して、天瀬が言った。対する柏木先生の耳には届いていないらしく、「え?」と意表を突かれたように目をしばたたかせた。
「おうちの電話みたい。先生、ちょっと待ってて」
「え、ええ。ここで待っているわ」
天瀬はその返事を聞くや、すぐさま身体の向きを換えて、自宅まで駆け戻った。
* *
柏木律子は少女の後ろ姿を見つめながら、手の甲で額をなでた。冷や汗をかいたという気分だけで、思わず拭う動作をしたくなったのだ。
(まったく、驚かさないでちょうだい。感づかれたのかと思ったじゃない。電話の音があの子には聞こえて、自分には聞こえないなんて、年齢を感じるわ)
苦笑することで、今し方の焦りが緩和される。気持ちが落ち着いてきた。
(私達のことを岸先生に話したのは、天瀬美穂、あの子で間違いないわ。今日の放課後、職員室で見かけたときにぴんと来た。岸先生と何だか親しげに話していて、そのあとメモを取った紙を細かく破いていたから、ますます怪しいと思ったけれども。さっきの彼女の返事で確定した)
知りたかったことをはっきりさせられて、気分がいい。
(私と弁野教頭のことを最近誰かに話さなかったかと問われて、何も話していないのなら、『最近ていつ?』なんて聞き返し方はしない。何かを目撃していたからこそ、あんな返事になったはず。あとはどんな場面を誰と目撃し、岸先生以外にも話したのか、だわ。父兄に話した可能性は低いと見た。話していれば、父兄は学校に抗議あるいは確認の問い合わせをしてくるに違いない。それがないことから、恐らくあの子は胸に秘めていて、家族にも話さなかった。だけど岸先生には何故か話したのよね。誰にも言わないでくれればよかったのに。その点は、非常に残念。おかげで、心ならずも――)
あとに続く言葉を柏木は思い浮かべたくなかった。考えると、躊躇する感情が生まれ育つのは分かり切っていた。こんなこと、したくはない。だけどもう引き返せないところまで来ている。
(岸先生の記憶だって、いつ戻るか分かったものじゃない。いずれやらなきゃいけなくなると思うと、気が休まらない)
お見舞いに行ったのが弁野と関係を持つきっかけだった――わずかな後悔と大きな喜びとともに、過去を振り返る柏木。
(元々、タイプの男性ではあった。病欠されたときにお見舞いに行ったのは好奇心混じりの気まぐれだったのに、ちょうど奥さんが留守で。それに、教頭先生――弁野さんの家があんな資産家だったなんて)
つづく
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