第95話 担任とは違うのに
「あ!」
思わず短く叫んでいた。デートという単語が思い浮かんだせいか、不意によみがえった記憶がある。あれは、私にとって初めて、少女の天瀬と会ったとき。この部屋に見舞いに来てくれたときのこと。
『前に、ちょっといいレストランに入ったとき、教頭先生と柏木先生がいてさ。離れた席に案内されたんだけど、じっと見てたの。そうしたらいただきますをせずに、食べ始めちゃった』
確か、こんなことを天瀬は言っていた。
きっと天瀬は、柏木先生と弁野教頭の密会現場を、図らずも見ていたんだ!
そのことを私は、じゃなくて岸先生はメモに書き記した。「度々」とあるくらいだから、複数の目撃証言を聞き及んでいたんだろう。
そして岸先生は、私以上に堅い一面を持ち合わせているようだ。もしかすると、柏木先生か教頭のどちらか一方、あるいは両者へ忠告程度はしたのかもしれない。
相手側はどう受け取るか。
脅迫? いや、岸先生の性格を知っているのなら、そんな風には受け取るまい。何をしても口止めできないと分かるはず。
だとすると、次は口封じか。だけど問題の夜以降、襲ってくる気配はない。柏木先生は普通に接してきている。教頭だって、この前やっと対面を果たしたばかりだが、異常は見られなかった。
二人が犯人なら、襲撃の夜以降の私を見て、何を思うだろう? 「岸の奴、くたばり損なった結果、部分的に記憶喪失を起こしたようだ。襲撃の状況や我々の不倫を忘れてくれているのなら触らぬ神に祟りなし」とでも解釈したのかもしれない。
じゃあ、このまま平穏無事に過ごせるのか。
否。
柏木先生と弁野教頭には、不安の種が残っている。不倫の現場を目撃して、岸先生に教えたのは誰かという点だ。
メモがちぎれていたのは、岸先生が握りしめたまま意識を失い、柏木先生達はそのメモに目撃者の名前があると踏んで、奪おうとしたんじゃないか。だが、うまくいかずに破れ、字もかすれた……。
辻褄が合う。物忘れの激しさと引き換えに、閃きや冴えを手に入れた実感がある。ここで一息つかずに、一気に詰めるんだ。
はっと気付くと、やかんがけたたましく鳴っていた。素早く火を止め、お湯は放ったらかしにして黙考を続ける。
* *
天瀬美穂は、何で?と思いつつも、玄関に立って応対に出た。
「ごめんなさいね。いきなり来て。クラス担任でもないのに」
柏木先生が目を細め、唇の両端を上に向けて笑みを作っている。やや逆光気味なのに、何故かよく分かった。天瀬はつられて笑顔をなした。
「別にかまいません。どんなご用ですか。お母さ――母なら、まだ仕事に出ていて留守なんです。もうじき帰ると思いますけど」
「ああ、そうだったわね。でも用事はあなたにだから。実は、岸先生から言伝を預かって来てね」
「先生から? でも何で岸先生本人が来ないの?」
「あの人はあの人で手放せない用事があるの。だから代理で私が来たわけよ」
「ふうん。分かりました。早く伝言を教えてください」
「それが、荷物もあるのよね。岸先生からあなたに渡してほしいという預かり物。大きさはそんなにないけれども、重たいから。運ぶの、ちょっと手伝ってくれる?」
「いいよ」
応じたものの、内心では「プレゼントされるようなことなんてあったっけ? 私だけ特別に宿題出されるとか?」と困惑と疑問が渦巻いていた。
「きっと、お見舞い返しかな」
柏木先生が言った。天瀬の表情から困惑を読み取ったらしい。
「天瀬さん、お母さんと一緒にお見舞いに行ったんでしょう? 岸先生は当たり前のことしただけと思っているから、お見舞いされっぱなしじゃ居心地悪いって感じたんじゃないかしら」
「ふうん。そういうものなのかなあ」
外に出て、柏木先生のあとについて、車があるという方へ向かう。夕陽もだいぶ沈み、辺りはオレンジ色から暗い闇色になりつつある。いわゆるトワイライトタイムという時間帯か、人っ子一人、出歩いていない。
「――ところで、私からもあなたにちょっとお話があるのだけれど」
「え?」
足をぴたっと止めて顔を上げた天瀬に、柏木先生は肩越しに振り返ると、さらっと告げた。
「教頭先生のことよ」
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます