第93話 間違えられない見極め

「何かあったんですか」

 突然、柏木先生に声を掛けられ、身体がびくっとなった。いつ、こんなに近くまで来ていたのかすら分からなかった。笑顔を作ってから面を起こす。

「何か、とは?」

「受け持ちの子が引き返して来て、何か話をしていたみたいだったから。あの子が天瀬さんですよね、噂の」

 相手も変わらぬ笑みで返事をしてくる。こうして見ても、彼女が岸先生に何かしたとは想像しづらい。

「別に事件の話をしてはないですよ」

「本当に?」

 そう応じた柏木先生の視線が少し動いた。ほぼ真下、床を見ているようだ。私がその視線の先を追うのはまずい予感がしたので、何があったかを思い浮かべる。ああ、ゴミ箱があるんだ。ということは、先程、私が細かくちぎった紙のことを、先生は気にしているのだろうか? 第一、こちらの様子をずっと窺っていたんだとしたら、何のために?

 これは、疑心暗鬼を生むというやつなのか、それとも柏木先生への容疑を強めるべきなのか。判断に迷うことばかり続いている。

「まあかまいませんけれども、一般的には、特定の児童ばかりと親しくなるのは、あまりいいようには見られない風潮なので、注意した方がいいですわよ。それだけです」

「分かります。そんなつもりはないんですがね。まあ、今は事件があったばかりだから、少々懐かれているだけでしょう」

 この返答に納得したのか、柏木先生は無言で首肯し、離れていった。


 下校時、いつも以上に注意深く、ゆっくりめに自転車を漕いで帰った。右肩の傷は順調に回復していて何よりなのだが、ともすれば走行中にもかかわらず、事件について考えてしまいそうになり、注意散漫になりかねない。意識して考えないように努め、アパートに帰り着いた。

 今日は刑事さんも来ていないようだ。多忙なのか進展がなかったのか、進展があってもまだ明かせる段階ではないのかもしれない。

 部屋を出入りした人物のリストは、お寒い内容ではあるが一応できている。こちらから届けることも考えないではないけれども、リストの提出によって警察の動きが活発になるんだとしたら、現時点ではあまりよくない感じもする。部屋での襲撃犯は、渡辺逮捕の報を耳にして、自らの犯罪を渡辺になすり付けることができそうな成り行きに安堵していたかもしれない。そこへ新たに捜査が始まったと分かれば、犯人を確実に刺激すると思えるからだ。柏木先生と弁野教頭は私の同僚という枠組みで、刑事が聞き込みに行く可能性が結構あるように思えるし。

 天瀬に悪い影響が及ばないという保証があれば、もうちょっと大胆に動けるのだが。

 そう、今更ではあるが、私が相変わらずこの時代に留まっているのは、あの声が気になるからだ。二度目になる「天瀬美穂を助けて」という言葉を今度も信じて、彼女の身に降りかかる何らかの危難を払うためにいる。そこではっきりさせたいのが、部屋での襲撃犯が、天瀬の危機と関連しているのか否かなのだが……推理する手がかり一つ掴めない。

 こういう場合は最悪のケースを想定して行動を取るのが鉄則だ。襲撃事件と天瀬とが関係していると決め付けた上で、多少強引でもいいから天瀬に危機が及ぶ状況を捻り出す。無理にでも……。

 脳みそを絞る、それこそ乾いたぞうきんから一滴の水を得ようとするくらいの気持ちを込めて絞っていると、やがてぼやーっと光が浮かんできたような。

「――岸さん、岸さん!」


 つづく

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