第92話 身近な人を疑るときは特に間違えられぬ
「その紙、ちゃんと処分してね、先生」
明るいが力強くもある口ぶりで念押ししてきた天瀬。真剣な眼差しに、つい、気圧されそうになり、尻の下の椅子がぎぃ、と音を立てた。
「あ、ああ。もちろん」
彼女の言うことはもっともだ。このまま捨てて、第三者に見られたら、確かにちょっと意味ありげな文章に見えるかも。だから、彼女の見ている前で消しゴムをかけ、なおかつ細かくちぎってやった。
さて。長谷井への好きの度合いが変わっていないという天瀬の言葉が本当であるのなら、マークの黒色がちょっぴり薄く見えるのは何でだろう。まさか逆方向、長谷井から天瀬への好意が下がると、天瀬の方の色が薄くなるとかじゃないだろうし。
まあいい。今は棚上げにしておく。現段階で優先すべきは、弁野教頭と柏木先生のことである。
万が一、彼らの内のどちらか、あるいは二人ともが、岸先生の部屋で先生を襲ったんだとしたら、動機は何だ?
不倫に気付かれたから黙らせようってか? サスペンスドラマじゃあるまいし、そんなことで罪を犯すものだろうか。まずはもっと穏当な手段――口止め料を払うからと打診するとかじゃないのか。
そんな段階を経て拒否された上での凶行……ってのもあり得ないよな。不倫を知ってある程度時間が経っていたなら、岸先生の好きな異性ランキング一位が、柏木先生のはずがない。知って間もない内に襲撃されたと見なすのが妥当か。
いきなり襲う意味が分からない。そこまですることとは思えないのだ。弁野教頭がどこかの校長になれる目処が立っていて、このタイミングで不倫が公になると出世の妨げになる、なんて状況なら、一歩どころか百歩ぐらい譲って理解できなくはないけれども、現実にはそんな噂はないし、仮にあったとしても、教頭の職務を一部休んでることの方が妨げになるんじゃないか。本当にさっぱり分からない。
まだ関与しているかどうかも確証はないが、他の数多大勢に比べたら、二人が有力な容疑者に位置付けられるのは間違いない。問題は、これを刑事さん達に伝えるか否かだ。伝えること自体は簡単だけれども、彼らを疑う理由を問われると困る。「二人は不倫していて、その事実を私が知っているから」では弱いし、どうやって不倫関係を把握できたの?って話になるかもしれない。ことは犯罪絡みだけに、適当にでっち上げていいわけもなく、何か取っ掛かりが欲しい。弁野教頭と柏木先生の指紋を入手して、理由は言わずに優先的に調べてもらう……無理だろうな。
仮に、三森刑事に預けたゴミの中から、弁野先生か柏木先生の指紋の付いた物が見付かったとしたって、即座に二人が襲撃犯とはならないんじゃないか。どんなゴミに指紋が付いていたかにも因るが、先週の火曜以降、学校で教頭や柏木先生の触れた物を、たまたま私が持ち帰った可能性を主張されると、私には否定しきれないかもしれない。犯人が誰であろうとも、電話のコードを拭いていくぐらいの知恵は働く輩だ。滅多な物には指紋を残していないと考えておく方が、あとでがっかりしなくて済みそうな気がしてならない。
つづく
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