第76話 ※事実に相違する場合があり得ます

「おまえら……ありがとう。嬉しいけど、先生相手にこの言葉遣いはないぞ」

 右腕で黒板を軽く叩こうとしたが、肩の傷のことが脳裏をよぎったのでやめた。代わりに口で言う。

「『おめでと』はまあいいが、『あんた』はないだろう」

「それだけ親しみを感じてるってことだよ!」

 天瀬が先頭を切ってそう言うと、男女の別なく何人もが追随した。「そうだよ」「俺達のこと考えてくれてる」ぐらいはまだいいが、「先生は私らのヒーローだもん」というのは、天瀬が吹き込んだに違いない。

「はい、分かった。気持ちは受け取った。ほんとにありがとう。授業時間を短くさせようっていう作戦じゃあるまいな」

「違うよーっ」

「では、切り替えて。授業に入る」

 このとき、実は内心、結構感動していた。切り替える必要があったのは私も同じだった。


 一時間目が終わって、天瀬に声を掛けるか否か迷ったが、よすことに決めた。昨日のお見舞いで区切りは付いたのだ。事件は彼女にとっても恐怖をもたらしたはず。思い出させるような行為は、なるべく慎むのが吉だろう。

 そのまま教室を出て、廊下を少し進んだところで、ぱたぱたと足音が後ろから近付いてくるのに気付く。

「先生ー、完治はまだなんでしょう?」

 天瀬だった。彼女の方から言い出す分には、事件絡みの話でもスルーはできないな。

 完治とは、昨日の見舞いのことを思い出して言ってるに違いない。こっちが歩くスピードを緩めると、隣に来た。

「大丈夫?」

「必要もないのに、廊下を走らない」

 無粋ではあるが、注意しなきゃな。案の定、天瀬は一瞬目を見開いて、次いで「必要あるもん。先生に追い付くため」と言い訳した。子供らしい。

「心配してくれるのはありがたいが、もう大丈夫だから。天瀬さんは自分のことに集中する。そうしてくれた方が、先生も嬉しいし、安心だ」

「するする。だけど、先生の方も私を安心させて欲しい」

「そんなこと言われたって、何をすればいいんだ」

「傷、触らせてくれるとか」

「無理無理。縫って塞がっているけれども、触られたら痛い」

 以前の自分、つまりトラックに轢かれる前の私なら、「死ぬほど痛い」と表現してしまったかもしれない。今の自分は、痛みのレベルが段違いだと分かっているので、そんないい加減な表現は使わない。“死んでも使わない”だろうな。

「じゃあ、もっと引っ付いてから、抜糸する前ぐらいに、ちらっと見せて」

「何でこんなことに興味津々なんだ?」

「だってー、女を守ってできた傷って勲章みたいなものだなって、男子の誰かが言ってたから、一度は見ておきたくなったの」

 誰だそんなくさいフレーズを吐いたのは。ほんとに小学生か?

「もうじき水泳の授業が始まるはずだろ。そのときに嫌でも見ることになる」

「その頃にはきれいに治ってるんじゃない?」

「いや、多分、まだ早いだろうな。そもそもだ、女性の肌に傷が残ると一大事だからってことで丁寧に治療するが、男はいい加減なんだよ。傷が塞がればいいんだ。だから傷跡は残りやすい」

 全然確証のない、適当なことを言ったのは、職員室に早く戻りたいから。まあ、女性が外傷を負ったら傷の治療とは別口で傷跡をなるべくなくす手術を受ける、と考えれば、あながち嘘でもないだろう。まるっきり想像なので知らないが。


 つづく

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