第75話 こ、これは涙とは違うんだからね!的な

 何にせよ、授業を覚え間違えていたなんて、岸先生のイメージアップにはつながらないだろう。加えて、一番の懸念、吉見先生宅から一緒に来たのだと思われてないのなら、御の字だ。

「あら、嫌だ。先生、こんなことで時間を取らせちゃいけなかったんだわ。伊知川校長に報告を兼ねた挨拶をしておくべきじゃありません?」

「――そうですよね」

 またまた面倒ごとが持ち上がった。と言うよりも、報告が当たり前なんだけれども、きれいさっぱり頭から抜け落ちていた。職場での人間関係を円滑にするには必要なことだと理解してはいるけれども、先週に続いてまた校長室というのは気が重くなる。せめて、校長じゃなく、教頭ではだめだろうか。

「……そういえば、教頭先生をお見掛けしていないような」

 急に思い当たった。この時代、この小学校で働くようになってから一週間あまりになるのに、教頭先生に会っていない。

「あら。やっぱりどこかお悪いんじゃありませんか、岸先生」

「へ?」

 どうやら今発した台詞は、おかしなものになっていたようだ。恐らく、教頭の不在は教職員にとって周知の事実なのだろう。さあて、どう言い繕おう……。

「教頭先生なら体調不良で、二週間ほど前から、午後に数時間来られているだけですよ。確かに、顔を合わせる機会は減っているけれどもね」

「――はい、そういう意味で言ったつもりでした。言葉足らずで」

「だったらいいんですけど」

 ちょっと変な空気になったものの、柏木先生はさほど気にした風もなく、行ってくれた。やれやれ。

 それにしても体調不良かあ。教頭という立場は一番大変だって、よく聞いたものだけれど。やるべき仕事があまりに多くて、降格人事を申し出る人がちらほらいるとも聞き、強く印象に残っている。ここの教頭先生もその口なんだろうか。名前、聞いてないから、こっそり調べておこうかな。

「あ、時間」

 はたと思い出して、私は校長室に向かった。


 伊知川校長は暑苦しいぐらいに私を激励し、元気付けてくれた。見たまんま豪快系の人であるが、気遣いもできるのはさすが校長。私の肩の怪我についても心配してくれて、治りが遅いようなら秘伝のがまの油を上げるよ、とまで言ってきた。その場では勢いに飲み込まれる形で、「はあ、万が一のときはお願いします」なんて返事したけれど、本気の発言だったのだろうかとあとで疑問に感じた。

 さあ、授業だ。担任する六年三組のクラスに行く。戸を開け、すたすたと入って行こうとした途端に、拍手のシャワーを浴びた。

「――な、なんだ?」

 思わず足が止まる。同時に、板書の文字に目が行った。

 白だけでなく、ピンクや緑色のチョークもふんだんに使って、文字と絵が描かれている。光の具合で見えづらかったため、前に回り込んで改めて見る。

「おいおい」


<退院おめでと! 岸先生

      あんたはエライ!!>


 といった回復祝い?の言葉が二行に渡って書かれ、脇には単純化した私の(というか岸先生の)似顔絵が添えてあった。

「先生、退院おめでとうございまーす!」

 子供達の声が揃って言った。黄色く甲高い波に押された私は、前髪の生え際辺りを左手でいじりつつ、振り返った。


 つづく

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