第46話 間違いのない味だったけど

「何だこれは」

 思わず呟いたのは、浮かんだデータが真っ黒だったからである。

 全くの見ず知らずの人間のデータを覗いたって、こんな風には出ない。このことは検証済みだ。だからこの真っ黒なデータには、それなりの意味があるに違いない。

 追うべきか否か、迷った。だが、躊躇している間に、男は角を折れ、建物の陰で見えなくなってしまった。と同時に、交通量が増して、簡単には向こう側に渡れなくなる。

 気になる。今し方の男と言い、昨夜からの電話と言い、何とはなしに嫌な感じがした。奥底の方でつながっているような、嫌な気配。

 ここではたと思い出したのは、私の家――岸先生のアパートの部屋に出入りした人物がいたこと。

 その不審者イコール今目撃したばかりの男ではないか? 複数の不審人物が周りをうろついていると考えるよりは、ずっと合理的でありそうな解釈ではないか。もちろん、複数の借金を重ねて回収業者に追われているとか、美人局に度々引っ掛かって複数の怖い人に追い込まれているとか、絶対にない状況とは言えない。でも、私が部屋の中や持ち物をざっと見て回った限り、岸先生がイレギュラーなところから借金をしていたなんてことはないようだし、美人局に引っ掛かった気配は微塵もない。

 一方で、ちょっと辻褄が合わないのではないかと感じる点もあるにはある。隣人の脇田さんが見掛けた小柄な人物は、私の部屋から出て来たという。つまりは、岸先生との知り合いなのか? 少なくとも、部屋に上がり込めるほどの仲であったと。まさか強盗が岸先生のあとを付けてきて、ドアの鍵を開けた瞬間に押し込んだなんてことはあるまい。いくら何でも他の住人が気付く。

 知り合いなら何でデータが真っ黒けなんだろう? 前にもした想像だが、脇田さんの話だと部屋から物音がしたというし、岸先生はそいつに暴力を振るわれて昏倒したのかもしれない。その恐怖心のせいで、データが真っ黒に塗り潰された……うぬぬ、この推測が当たっているとしたら、役立たずなシステムだ。襲われた相手のデータを全消去してしまうなんて。

 いまいちすっきりしないが、さっきの男が明らかに避けた様子だったのを思うと、小柄な人物とイコールで結んでいいはず。

 ああ、今ほど携帯端末を持っていないのを悔しく思ったことはない。さっきの男の顔をカメラで撮れていれば、脇田さんに面通ししてもらえたのに。しかし、見掛けたのは夜だったというから、確かな証言は難しかっただろうな。

 そういえば――私は重要なことを今まで雑に扱っていた、それどころか失念していた事実に気付いた。

 脇田さんの証言では、部屋から出て来た小柄な人物は、鍵を掛けて出ていったんだよ、確か。合鍵を渡すほど近しい知り合いなのか、それともそいつが勝手に鍵を持ち出していっただけなのか。

 ――道端に突っ立ったまま、つい考え込んでいた。ラーメンを食べに行く途中だったことすら、すっかり忘れていたが、思い出すと急に空腹を覚えるものだ。すでにあの不審者の追跡は不可能なんだし、ここは吹っ切ってラーメン屋を目指すべし。頭を切り替え、うろ覚えの店を探し求めて、歩き出した。


 念願のラーメンは美味かった。それなのに急いで口にかっこみ、さっさと支払いを済ませて店をあとにしたのには理由がある。

 留守にしている間、アパートの部屋をどうにかされるんじゃないか?――こんな悪い想像が食事中に頭に浮かび、離れなくなってしまったのだ。

 何せ、相手は鍵を所持している可能性がある。これまでの一週間足らず、何もなかったからと、心のどこかに隙ができていたようだ。ラーメン屋に足を向ける前に、鍵のことを思い出した時点で飛んで帰るのが当然なのに。

 アパートには多分、七分ほどで戻った。全力ではないが走ったせいで、汗はかくわ、息は乱れるわ、食べた物の臭いが食道を戻って来るわで、食後のささやかな幸せは台無しだ。

 私は玄関戸の前に立つと、深呼吸して心臓が落ち着くのを待った。


 つづく

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