第38話 すれ違いかもしれない
はっ。
ぼんやりしてしまった。スーパーにいることを危うく忘れるとこだった。
「すみません」
商品を取るのに邪魔になっていたのだと思って退こうとしたが、名前を呼ばれていたことにふと気付く。
「――っと」
同僚の女性教師がいた。名前を覚え切れていないため、咄嗟には言葉が出て来ない。えーと、えーと。焦ると例のもやもやデータのレスポンスも遅くなるみたいだ。新しい発見だな。いや、今はそれを喜んでる場合じゃなく。
「柏木先生でしたか。お買い物ですか」
やっと頭に浮かんだ。当たり障りのない会話をつなげようとして、当たり前に過ぎるフレーズを吐いてしまった。飛行機の同乗者にこれからどこへ行くんですかと尋ねるよりは、随分ましだろう。
「――はい。毎週末はたいてい、ここで」
間を開けて、そんな答が返って来た。想像するに、以前、柏木先生は同じことを岸先生に話していたんだな。そのときのことをもう忘れたのね、呆れたって目付きだ。
身体を勝手に借りている恩義もあり、岸先生の日常や私生活に劇的な変化を与えるのは極力避けねばならない。柏木先生に好意を持っているのは確かだが、恐らくまだ一方通行。お礼にわずかでも仲を進展させてやろうなんて傲慢なことは考えない方がいいだろう。だいたい、私自身が天瀬を裏切ることになってしまう。
「すみません。同じような会話、しましたよね」
「ええ。まあいいですよ。何だかぼーっとされているようでしたから、ちょっと心配になってお声を掛けさせてもらったんです」
「はあ、やっぱりそう見えましたか」
「まだ体調が完全には戻ってないとかですか」
「それもあるかもしれませんが、今日はクラブ活動の指導でちょっと失敗しまして」
「そうでしたの。よろしければ、相談に乗りますよ」
「あ、いや、大丈夫です。ご面倒をかけるわけには」
慌て気味に片手を顔の前で左右に振った。まさか、将来の嫁に誤解されて落ち込んでいますなんて言えるはずがない。
「遠慮なさらなくていいのに」
買い物を再開する柏木先生。私はこの中途半端な感じで終わるのはよくないかなと考え、もうちょっと彼女との会話を続けてみることにした。
「あの、たとえ相談したくても、ここで児童個人の名前を出すのはまずいかなと。誰がどこで聞いているか分かりませんから」
「分かりました。では、買い物のあと、私の車の中で伺いましょうか」
「え、車?」
女性教師が車を所有していても全然おかしくないが、そのイメージがなかったので、思わず反応してしまった。それに、夕方のこの時間帯に、車で相談に乗ると申し出てくれるってことは、私が思い描いた以上に、柏木先生の方も岸先生を気にしているようだ。
「あ、車に二人だけというのは、また別の意味で見られるとまずい」
「――そうでしたね」
ぷいと前を向いて、先を急ぐ風になった柏木先生。自分の発言を恥ずかしく感じたのかな。それとも……今のが岸先生に対するモーションだとしたら、こちらの鈍さにまた呆れた可能性だってある。うーん、正直言って面倒だ。他人の恋愛沙汰に関与している余裕はほとんどないんだ。会話でいちいち裏の意味まで読み取ろうとするのは、精神的にひどく疲れる。
それでも一応、急ぎ足になって、追いつく。買い物籠の中で、えのきが前後に動いてカサカサ音を立てた。
「あの、柏木先生」
「今のようなことを言い出すんでしたら、並んで買い物をしているところを見られてもまずくなるのでは?」
「あ」
これは完全にしくじった? だとしたら、すまない、岸先生。なるべく自然な会話に努めて、穏やかに切り上げようと思っていたのに、全く逆の目が出てしまった。
挽回しようにも、今まで岸先生と柏木先生がどんな距離感でいたのか分からないし、会話の内容や言葉遣いすら掴めてない。これ以上ぼろを出さない段階で、今日のところは離れておくのが吉かな。触らぬ神に祟りなしと言うし。
と、私の方で意識して遠ざからなくても、柏木先生はどんどん先に進み、買い物かごを商品で満たしていった。
つづく
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