第37話 違う、誤解だ

「ひどいよ。先生が何か言ったんでしょ。雪島さんに」

「え?」

「私に恥ずかしい格好させるようにって。何で?」

「いや、そんなことは言って――」

「嘘っ。開始前に、雪島さんだけ呼んで話していたじゃないのっ」

 なるほど、あれを誤解したか。原因を理解できてほっとしたのも束の間、天瀬は凄い勢いできびすを返すと、すたすたと足早に去って行ってしまった。

「待てって。誤解だって。今、雪島さんに……」

 話の内容を説明させるから、と続けるつもりだったが、当の雪島の姿を見失っていた。多少おろおろして目線を彷徨わせ、見付ける。もうすぐ終了する頃合いなので、皆、帰る準備を始めているのだ。

「岸先生、マット片付けなくていいのー?」

 五年の男子に聞かれた。

「ああ、そうだったな。頼んだぞ」

 と、かなり適当な返事をして、私は小走りになって雪島に追い付いた。

「雪島さん、さっきのはやりすぎ、遊びすぎだよ」

「そうですか」

 立ち止まって振り向いた雪島は、にこりともせずに答えた。勝ちを逃してちょっと不機嫌なようだ。

「とりあえず、相手の天瀬さんが誤解している。それを解いてほしい」

「誤解も何も……先生に、遊んでやってもいいですかと聞いたら、そうしてくれって仰ったから」

「……うん? 遊んでやる?」

 数分前のことを思い起こす。

 試合直前の会話で『本当に遊びでやっていいんですね』と聞こえた台詞は、実際は、『本当に遊んでやってもいいですか』だったのか! そしてアスリートにとって「遊んでやる」とは、格下相手に力の差を見せつける試合にするってことだろう。だからああなったと。

「分かった。し、しかし、あれはやっぱりやりすぎだと思うぞ、先生は」

「まあ、私も個人的にジェラシーありました。それは認めます」

 ジェラシーって、何のこっちゃ?

「四年生のときまでは、長谷井君と一番仲がいい女子は私だったんです」

 雪島はここではいおしまいという風に手を一つ打って、「先生。今日のもよかったけれども、相撲をやるときはもっと楽しみにしてますから」と言い残し、マットの片付けに加わった。

 おい、まだこっちの話が終わってないんだがと言いそうになった。けれども、さっきの天瀬の様子では、雪島の今し方の話を聞かせたって意味がない気もしたので、あきらめた。私の潔白を証明するために、雪島が天瀬に嫉妬していることを話させるのも気が進まない。彼女が自発的に打ち明けるのならまた別だが。

 うーん、本当に参ったな。ほんの少し前までは、靴下脱がしレスリング、やってよかったと思えていたのに。終わりに来てこうなるなんて。


 天瀬の誤解を解けないまま、帰る時刻を迎えた。といっても、児童の方はとっくに下校しているが。

 精神的にへとへとだったが、買い物をしていく必要があった。家までの道すがらにあるスーパーマーケットに立ち寄る。下校途中の児童が買い食いとか店内で無駄にたむろしていないか、念のために注意を払いつつ、食品を見て回る。

 今晩これから自炊する元気が出るかどうか自信がない。出来合いの物に手が伸びる。明日以降は材料から料理しよう。

 そういや、この当時から週五日制がすでに開始されてたんだよな。休みが週に二日になる!って最初は喜んだものの、他の曜日が大変で大変で。しばらくするとたまに土曜にも授業をやるようになって、変な感じだった。リズムが作りにくいっていうか。小一から週五日制に慣れてたらまた違ったんだろうけど、私の世代は確か……四年生のときに変わったんだったかな。

 ま、とりあえず明日明後日と休みで、学校に出向かなければならない用事もない。週明けの準備があるからのんびりとまでは行かずとも、多少は息抜きできよう。

 ただ、一方で、二日も間が空くのは不安である。何がって、天瀬の話だ。誤解させたまま足掛け四日間を挟むのは、こじれそうで嫌な予感しかしない。

 いや、まあ、この時代の岸先生が天瀬と仲がよくなろうが悪くなろうが、私には関係ない(未来に悪影響を及ぼさない限り)はずなんだけれども。いつ戻れるか全く見通せない現状だと、やっぱり天瀬に嫌われるよりは好かれたいわけで。その方が、こちらにいる間も幸せな気分でいられる、うん。

「岸さん? 岸先生!」


 つづく

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