第12話 十五年の違い

 タイムスリップという普通あり得ないことが我が身に起きている、今この状態で、重ねてあり得ない仮定を行うのは滑稽であろう。いや。あるいは逆にリアルなのか。

 ともかく私は仮定してみた。

 もし仮に、この時代にいるもう一人の私、つまりは十二歳の貴志道郎が、天瀬美穂の身近にいたとしたら。

 その上で、今さっきの天瀬の言葉――「好きな人いるよ、同じクラスに」を聞いたとしたら、どう感じただろう。

 彼女と同じクラスだったら、脳天気に、「ひょっとしたら僕のことを言ってるかもしれない」と受け止めて、その後も変わらないでいられるだろう、多分。

 だがクラスが別となると話が違ってくる。

 彼女の好きな男子というのは、自分ではないことが確定するのだ。相当なショックを受けるのは間違いない。

 それに比べれば、今の私が受けた衝撃なんて、ほんの小さなものだ。

 と、冷静になったところで、私はクラス名簿を探し始めていた、十五年前とは言え、学校の資料の外部持ち出しは厳しいはずだが、担任するクラスの児童名簿ぐらいはあってもおかしくない。住所や電話番号などの連絡先の載ってない、単なる出席名簿のような物だ。

 もちろん、名前だけ見て、この男子が怪しいなんてことは言えるはずもないのだが。

「おっ」

 備え付けの簡易クローゼットのようなところを開けると、中に鞄が置いてあった。茶色をしたビジネスバッグで、いかにも通勤時に使いそうな代物だ。

 そういえば明日、出勤するにしても、どんなルートを使ってどこの小学校に行くのか、きちんと把握しておかねばならないなと、頭の片隅にメモを着ける。

 ビジネスバッグを開けると、中からは資料らしき紙が結構詰まっていた。その中にはクラス名簿もあった。が、それ以上に気になる物が。

 算数のテスト用紙だった。すでに行われたあとで、採点のために持ち帰っていたのだろう。三割ほど済んでいる。残りの七割、採点しておかねば。

 教師としての使命に目覚めた、と言うつもりは毛頭ない。明日以降、貴志道郎ではなく岸未知夫としてしばらく平穏無事に日常生活を送るには、仕事をちゃんとこなしておくことも大切な要素であると捉えたまでだ。

 しかし……採点基準が分からないのは困ったな。朧気な記憶だけれども、十五年前と言えば、生きる力とか総合的な学習とかを言い出して間もない頃か。“ゆとり教育”って言葉自体はもう大昔からあった。が、後にネガティブなイメージで語られることの多い“ゆとり世代”に直結するゆとり教育は、今いる時代の頃に始まったはずだ。私達の世代の中学高校受験とモロ被りってことで、親も先生も右往左往してたような。

 で、私が教師になった頃に、脱ゆとりに転じた。ということは、もしかすると私が小学校教師として身体に染みついている採点基準と、この時代の採点基準とでは大きく異なる可能性が高そうだ。

 私は腕組みをして少し考え、ああ、と閃いた。採点が終わっている三割を参考にすればいいんだ。それでも判断に迷うようであれば、子供の頃の自分がいい点を取っていた解答を思い出すとしよう。

 考えてみれば、私の世代の教師はゆとり教育のもとで学び、脱ゆとりで教えようとしていることになるのか。何となく、皮肉なものを感じる。

 私が十五年前に飛ばされた(?)のは、学んだときの体験をそのまま活かせという天の配剤かな。まさか!


 つづく

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