第9話 違う違うそうじゃない

「……そう言えば、ビールっぽいグラスがあったような気がしてきた」

 頭の両サイドを左右の手で押さえるポーズになる天瀬。

「ど、どうした」

「私ったら勝手な思い込みで、柏木先生のこと嫌いになってた。謝らなくちゃ」

「嫌いって、具体的に何か行動で示したのか?」

「それはしてないけど。もし何かあったら、友達とかに言ってたかも」

「いいよいいよ。気付いて反省できるだけで立派。それよりも、食べていいか?」

「え、あ。まだ食べてない! 延びるどころかふやけてカスカスになっちゃう! 作り直そうか?」

「大丈夫だって。そんなに早くに延びるものか」

 一口すする。

 ……何だろう、思っていたのとは違う味だが、悪くはない。うまいと言っていい。和風にエスニックがプラスされたような。ああ、ベトナム料理のフォーがこんな感じだった気がする。

「どう?」

 頭に持って行っていた両手が、今は胸の前に来て、左右ともぎゅっと握りしめられている。表情も真剣だ。

「うまいよ」

「お世辞抜きに?」

「ああ。先生が保証する」

「――よかった」

 ようやく力が抜けて、緊張を解いた天瀬。そんな様を見て微笑ましくなり、つい頬を緩め、気も緩めていると。

「お嫁に行っても恥ずかしくないレベルだった?」

「――」

 むせた。

 先程、天瀬が置いてくれたコップを求めて手を伸ばす。

「もう、飛び散ったよ、きたないなー」

 口では悪く言いながらも、コップを渡してくれた。水を少し飲んで、ようやく人心地付く。

「……はあっ。危なかった。台無しにするところだった」

 天瀬はティッシュペーパーを箱からばっと束になるくらい取り出して、テーブルやら床やらを拭いてくれていた。拭き終えて、丸めたティッシュを、ゴミ箱に放ってから、私の真横に立つ。

「何で咳き込んだの。お嫁に行くって話したら、そんなにおかしい?」

 横から見下ろされるのを意識しつつ、私は顔だけ向けた。こっちを見ている天瀬は、ちょっと不機嫌になっているらしく、かすかに頬を膨らませている。その様子が、十五年後の彼女と重なって、結構怖い。射すくめるような視線に耐えられず、私はテーブル上の器に向き直った。

「おかしくないよ。ただ、少し驚いた。君らの年頃で、そんなこと考えるんだなって」

「驚くようなことかなあ。周りで言ってる友達、それなりにいるんだけどな」

「僕が小学五、六年生のときは、全然そんな話はしてなかった。だから多分、男子と女子では違うんだよ」

「それは日常的に実感してる。絶対に、男子より私達の方が大人だもん」

「ははは」

 納得してくれたようだ。こっちもやっと食べることに集中できる。考えてみれば、結婚相手の小学生時代の手料理を食べられるなんて、幼馴染みでもない限り、まず味わえない体験ではないか。

 そして食べながら思い返す。「お嫁さん」発言を耳にしたときの衝撃はとりあえず去っていたが、それでもまだ私の心理に影響を及ぼしている。もしかするとだが、これが“きゅんきゅんする”と表現される感情か?

 その分析は棚上げするとして、天瀬は何故、お嫁さん云々の話をしたのだろう。単にこの年齢の女子なら珍しくないことなのか、具体的に結婚相手を思い描いての発言なのか。

「――あー、天瀬」

「うん? 食べ終わった?」

「いや、終わったらごちそうさまをするよ。えっと、こういうこと聞くとセクハラと受け取られるかもしれないので、予め断っておく。嫌なら答えなくていいからね」

「何だか分かんないけど、真剣で怖いよー」

 台詞の内容とは裏腹に、笑っている天瀬。

「結婚したいと思えるくらい好きな異性が、いるのかどうか。担任として気になったんでな」

 質問を発した直後から、ちょっとした自己嫌悪に襲われる。

 未来の夫として気になった、興味本位の質問だということは、自分でよく分かっている。担任がどうとかこうとか、何を取り繕っているのだ私は。違うんだ。聞くなら聞くで、堂々としたい。

 でもまあ、この年頃の女の子が、おじさんに打ち明けるはずないよな。


 つづく

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