第8話 選択を間違えないように

 もしや――この子はこの岸未知夫の部屋に来慣れている?

 一瞬、よからぬ想像をしてしまったが、振り払う。

「そうめんは出て来たけれど。ね、先生。めんつゆか白だし、あったんじゃあ?」

「あー、分からん。元に戻してなかったか」

 本当に分からないんだが、ここはずぼらを装うほかない。

「というか、やらなくていいって。宿題、出されてるだろ。明るい内に早く帰って、片付けなさい」

「遠慮しなくていいよ。近所のよしみってやつ。ていうか、明るい内に早く帰るもなにもないわ。この近さで」

「……」

 まずい。近いってどのくらいなんだ。聞くのはおかしいだろうし。児童の住所なんかは学校に行かないと見られないよな。持ち出せる訳がない。そもそもこのアパートの住所は……ああ、思い出した。この男の持ち物を調べているときに、免許証が出て来たんだった。財布などに入れて持ち歩かず、自宅に置いているってことはマイカーを所有しておらず、他人から運転を頼まれることもまずないからと推測できる。

 などと、今不必要なことに脳細胞を使っている場合じゃないんだった。

「そ、そうだな。ゆーっくり歩いても一時間も掛からないもんな」

 わざとぼけた発言をして、鎌を掛けてみる。

「時間て、ばかなこと言わないで。三つ向こうの通りなんだから、五分あれば帰れるわ」

「五分か」

「やだな、先生。忘れてるの? お茶を飲みに来たじゃない」

 私があんまり変な反応をするものだからか、小学生の天瀬は手をざっと洗うとタオルでふきふきしつつ、こっちにやって来た。(多分)心配と不安とで、目尻が上がっている。

「私達が引っ越しの手伝いに来たでしょ。休憩しようとしたら、連絡ミスでガス屋さんがまだ通じていなくて、火が使えないってなって、それで近いからって私の家に来たじゃない」

「うむ。そうだった」

 過去の状況を説明してくれたのはありがたいが、これ以上深く聞かれたら、私はもう記憶喪失症のふりをするしかなくなる。頼むから、そのときのお茶の内容を確認しようなんて真似、やめてくれよ。

「あのときに、そうめん、早く食べなきゃだめだよって言ったのに、やっぱり残してて。大量にあったから仕方ないけどさあ」

 台所に戻る天瀬。

 そうか。引っ越しの手伝いに来てくれたときに、台所の様子をだいたい把握したって訳か。天瀬がこの先生と元から特別に親しいってことではないのだな。ほっとした。

「変な味になるかもしれないけど、いいよね?」

「うん?」

「醤油と塩胡椒しか見付からなかったから、白くて細いキノコ、えっとシメジじゃなくてエノキダケを刻んで薄めた醤油で軽く煮立たせて、塩胡椒をぱっと振っただけ」

 いつの間に作業を進めていたんだ。普段は多分汁物に使うのであろう、塗り物っぽい安茶碗に、にゅうめんができあがっている。

 ここまでされては、食べないわけにいくまい。器と箸を受け取った。

「手際がいいんだな、天瀬は」

 名前を呼ぶ度に、変な感覚に襲われる。居心地の悪い、くすぐったいような、それでいて恥ずかしくなるぐらいに愛おしいというか。

「味見してから判断してね」

 天瀬は台所とリビングを行き来して、水で満たしたグラスを持ってきた。テーブルに置いて、自らも腰を下ろす。

 私は一旦、器と箸を置いて、手を合わせた。

「いただきます」

「へー、いただきますするのって学校だけじゃないんだ?」

 何を言い出すかと思ったら。なかなか食べられないじゃないか。

「当たり前だ」

「ううん、しない大人もいるよ。給食でいただきますするのはポーズなんだと思ってた」

「何かあったのか」

「前に、ちょっといいレストランに入ったとき、教頭先生と柏木かしわぎ先生がいてさ。離れた席に案内されたんだけど、じっと見てたの。そうしたらいただきますをせずに、食べ始めちゃった」

「それは多分、店のマナーに合わせたか、食べ始める前に、お酒で乾杯したから省略したんだと思うよ」


 つづく

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