第5話 違いの分かる男
美味いな。
苦みとほんの微かな甘みとが、舌を通じてじんわりと身体に染みてくる。香りと相俟って、心地よいくらい。
時間に余裕があるときは、レギュラーコーヒーも悪くない。
そんなことを感じていると、多少は落ち着いてきて、肝が据わった。十五年後に戻れるかどうかは分からないが、ひとまず現状を受け入れてここで暮らしていくしかなさそうだ。だいたい、もし十五年後に戻っても、あのトラックか何かに轢き殺される続きを味わわされるんじゃあ、意味がない。
ということで、岸未知夫についてあらかた分かり、コーヒーも飲み終えたので、次は金を探す。財布はすでに見付けてあったが、一万いくらでは全く心許ない。クレジットカードは使わない主義らしく、一枚も見当たらなかった。
どこかに電子マネーがあるのではという考えが一瞬よぎったんだが、十五年前にはさほど普及していなかったはずと考え直した。
こうなると、あとは預貯金の通帳だ。完全に泥棒の家捜し状態である。
知らない男の室内を勝手に荒らしている気分は、あんまりよくない。その内、ふと、妙なことを想像してしまった。
「この男の命はどうなってるんだ?」
ついぽろっと、言葉になって出た。
まさか、私が入り込んだせいで、男の方は死んでしまったとかじゃないだろうな。もし仮にそうだとしても、恨まないでもらいたいのだが。私も死にかけていたし、と言うかほぼ間違いなく死んでいたし、こういう事態に陥ったのは不可抗力なのだ。
念のため、目を閉じて合掌しておいた。
それからも何やかやと生活基盤を確保するための確認作業に時間を費やし、気が付いてみたら午後三時四十五分だった。その間、外に出てみたのは一度だけ。銀行の通帳とカードを見付けて、しかもご丁寧に暗証番号らしき四桁の数字をメモした紙を挟んであった。これで金を下ろせるか試しに行こうと思い立ったのだ。
ちょっとでもましな格好をと、髪をとかし、顔を洗って歯磨きをした。衣装ダンスを漁ると、落ち着いた青系統のこぎれいなサマージャケットとジーパン、白のTシャツがあったので、それらに着替えて出掛けてみた。
あ、靴はスニーカーを履いたんだが、この男の足にフィットしているのに、私自身はどことなく靴擦れでも起こしそうな違和感を覚えた。私・貴志道郎の魂が岸未知夫の身体を着ぐるみのように被っている、というイメージに近いだろうか。
外を出歩いて最初の数分はおどおどしてしまった。この男の知り合いに出会ったら、どう対応していいか困る場合が多々あると思えたからだ。
しかしそんなことを気にして、時間を掛けている余裕はないと思い直す。
銀行のATMからお金を引き出せるかどうかを試すために、当初は銀行を目指すつもりでいた。だが、どこにあるのか分からない物を歩いて探すのは無謀だと気付き、次に、コンビニエンスストアが目に留まった。
十五年前、すでにコンビニへのATM設置が始まっていたかどうか、確信はなかったがとにかく入ってみた。するとドアのすぐ横、右側にあったので、思わず小さくガッツポーズをした。お誂え向きに手にしている通帳と同じ銀行だった。
こうして無事に金を下ろせることを確かめて安心した私は、急に空腹感を覚えた。ちょうどいい、コンビニ弁当とお茶飲料、それからインスタントコーヒーの小瓶を買って店を出た。
引き返してから弁当を半分ほど食べて、“家捜し”を再開していたら、いつの間にか夕方近くになっていた次第である。
弁当の残りをかきこみ、お茶、そしてインスタントコーヒーを飲んでいると、チャイムが鳴った。
うん? 朝は鳴らなかった気がするが、勘違いか。それとも温度とか湿度の関係で、接触不良が起きたり直ったりを繰り返すのかもしれない。
また吉見先生だったら、回復アピールをしておくかな。集金の類だったら面倒だな、また金を下ろしに行かねばならない、等と我ながら呑気に構えつつ、玄関に足を向けた。
「はいはい、只今」
例によってスニーカーを踏んづけて三和土に立ち、ドアの鍵を開ける。自分の習慣にないものだから、覗き窓から来訪者の姿を確認するのは忘れていた。
「――ん?」
一瞬、誰もいないじゃないかと思った。ピンポンダッシュでもされたかなと頭に手をやり、視線を少し下げると、来訪者がそこにいた。
「岸先生、お見舞いに来てあげたわよ」
ランドセルを背負った女の子が立っていた。
つづく
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