第60話 想いをのせて③
やるべきことはたったひとつしかなかった。
ハルカナの感情野が何よりも望んだのは、ただそれだけだった。
目を覚ました瞬間からハルカナはそのことだけを考え、いや、それは思考ですらなく、純粋な衝動となってハルカナを突き動かした。
感情野の魂の叫びに応えて封じられていた活性化物質が解き放たれ、全身を流れるナノファイバセルに隅々まで行き渡る。化学麻薬を得て過剰に活性化したナノファイバセル群は感情野が発した電気信号の望みを受けて反応し、集束、凝固、連結していく。それは言わば呪いであった。ハルカナの全身の血管内で凝結したナノファイバセル群はハルカナの皮膚上に黒い、呪印とも言うべき紋様を描き出していた。感情野からの指令を受けたナノファイバセル群は、そのたった一つの望みを叶えるだけのためにハルカナの身体を支配する、呪いと化していた。
ハルカナに残された時間は、わずか一分。
でもそれは、奇跡のような一分だった。
感情超過負荷駆動にナノファイバセル群が耐え得る時間と、最後の残りカスのようなエネルギーがくれた時間。
本来なら何も残らなかったはずの、ロスタイムの稼働時間。
一分あれば、十分だった。
身体を起こす。左目だけの乱れた視界に、対ファイバライフルが映る。手に取る。通路の壁に向けて、ありったけの弾丸を撃ち込む。反動でさえ身体が軋む。壁のコンクリートが氷のように砕けていく。瓦礫の雨。銃声も爆音ももうほとんど聞こえない。音響センサーは今にも死にかけている。弾が尽きた。対ファイバライフルを投げ捨てブレードを抜き放つ。合計でも三秒と起動できない。ハルカナに残された最後の戦闘継続時間。対ファイバライフルが開けた壁の大穴へ力の限り突撃、銃撃で破壊し切れなかった壁の金属板はブレードを一瞬だけ起動させて突き破った。抜けた。プラットホーム内。床に一回転して立ち上がったときには状況把握を完了。近くにいるファイバ三体はどれも無視していい。立ち上がった最初の一歩目にはすでに破られた発射施設の扉の方へ爆発的に駆け出している。残り稼働時間がみるみるうちに消えていく。右膝に腱断絶レベルの損傷警報。そこまでもてばいい。ミサイルのような勢いで発射施設内に突っ込みバレルに取り付く一体を確認、一切の減速を放棄してブレードごと衝突、最後の二秒間を起動、ギガントをバレル壁面に縫い付けて、そこでようやく、ハルカナは停止した。
もう、エネルギーは空っぽだった。
感情超過負荷駆動に耐え切れなくなった全身のアクチュエータが、死に始めていた。
生命維持さえ、不可能だった。
右手のブレードと、バレル壁面に串刺しにしたギガントの胴体に寄りかかったまま、ハルカナの身体はもう指一本動かせない。
実は、ブレードを起動した直後から光学センサーもついに力尽きて、ハルカナの目はすでに何も映していない。
死にかけの音響センサーだけが、ハルカナの任務の結末を伝えてくれている。
ギガントが暴れている音がする。ハルカナの一撃は、そいつを倒すまでには至らなかったのだ。後ろから二体分の足音も近付いてきている。ハルカナに止めを刺すつもりなんだろう。
でも、いいのだ。
ハルカナの音響センサーは、ちゃんとその音も拾ってくれていたから。
十秒を切った、ライトクラフト発射のカウントダウン。
ハルカナは、一緒に行くことはできなかったけど、それはほんとにほんとに残念だけど、でも、アルシノエとの約束を果たすことだけは、できたのだ。
耳元に雑音。その向こう側から、愛しい声。
『……ルカ……! ……ハ……カナ……! ―――――』
音響センサーが、死んだ。もう、何も伝えてこなくなった。
――アルシノエは、泣いていたのかな…… さいごまで、かなしませてしまったのかな……
それももう、わからない。
「さよならアルシノエ。みんなに会ったら、伝えてね。ハルカナはさいごまでやくそくをちゃんと守ったよって――――
そう口にしたつもりだったが、どこまでちゃんと声に出せただろうか。
カウントダウンが、ゼロを告げた。
ハルカナの思いが伝わったかどうかも、もうわからない。
数秒後、亀裂から吹き出たプラズマが、すべてをきれいに焼き尽くした。
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