第57話 最後のメモリ④
感情野が喜びを爆発させた。
――研究員さんっ!! 来て、来てくれたんだ!
ついさっきまであったあらゆる疑問が、呆気なく吹き飛んだ。嬉しすぎて嬉しすぎて、それ以上思考が進まない。
――あのっ、あのっ、会いたかったのですっ。ハルカナはすごくすごく頑張りましたのでっ。それでそれで、えへへ、ボロボロになっちゃいましたけど。
ハルカナは当然覚えるべき疑問から目を背けたまま、ただただ表面にある嬉しさと懐かしさにすがった。それらだけを見つめて、他には目を向けないように。
『そんぐれぇ大丈夫だろ』
別の声が聞こえた。
目の前の青白い研究員がいつの間にか消え去り、そこにはいつも怒ったようなダミ声のおやっさんがいた。
『ハルカナ、オメェには残ってるもん全部詰め込んだんだ。そんくれぇ大したこたねえ。オメエにはまだ力が残ってるはずだろうが』
――でもでも、ハルカナは完全に壊れてしまったのかもしれないのですけれど。身体がどうしても動かないので。エネルギーももうないので。ハルカナはどうすれば、
『これ』
無愛想な声。
ハルカナの目の前にあのノートが差し出される。
ハルカナはその人物の顔を確認しようとするが、どうやっても視線が届かない。
でも、
この声は、
あの若い技術者のものだ。
『これ。思い出して。ここに全部描いてあるから。描いたのは、ハルカナ、君なんだから』
このノートを、
ハルカナが描いた。
ハルカナは目の前のノートの背表紙を見つめる。
スパコンの筺体とケーブルのジャングル 散らかりっぱなしの作業台 場違いも甚だしい木製の勉強机 首の後ろのターミナルにぶっといケーブル 机にかじりついて ノートを開いてペンを
――そうだ。
このノートには見覚えがあった。今はなんの飾り気もない背表紙が見えているけど、あれを引っくり返せば、表紙には習いたてのたどたどしい字ででっかく『大事なことノート」と書いてあるはずだ。間違いない。だってそれを書いたのは確かにハルカナなのだから。ノートをめくれば、中にはハルカナが『メガホイール」で学んだことが手当たり次第に絵にしてびっしりと書き込んである。その中にはきっと、こんな絶体絶命の状況に対する対処法も描いてあるに違いないのだ。
若い技術者が、一度も見たことはないはずだけれど、笑ったような気がした。
『それじゃ。僕らは向こうで待ってるから』
若い技術者がハルカナに背を向け、ゆっくりと離れていく。
――待って! 待ってください! ハルカナも一緒に行きますので!
若い技術者の背中に向かって叫ぶ。必死に立ち上がろうとする。でも、ハルカナの身体は自分の身体ではないかのようにまるで動こうとしない。
――どうして動かないの? なんでなんで?
焦る。
早くしなきゃ。
行ってしまう。
遠く離れたところで、シルエットだけになった人物が足を止めてハルカナを振り返った。
『どうしたんだいハルカナ? そんなところでいつまでも寝転がって』
教授の声。
その姿は、随分とぼやけて、もうはっきりとは見えない。
ハルカナと教授だけの、静かな世界。
『人工神経回路網が生きてる限り、ハルカナは動き出せる。お前に与えた感情野はそのためにある。感情はスイッチだ。その声に耳を傾けてごらん。そうすれば、血液の代わりにハルカナの全身を満たす、ファイバから精製したナノファイバセルがきっと応えてくれる』
――でも、動かないの
『大丈夫。ハルカナにはまだ力が残っている。まだ、やることが残ってるだろう?』
視界が遠ざかる。
声が拡散していく。
ハルカナの叫びも、もう誰にも届かない。
『ハルカナへんじしてぇーっ!!』
それは、星の裏側までもきっと届く、魂から放たれた叫び。
ハルカナを呼び覚ます、アルシノエの声。
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