第56話 最後のメモリ③
ブラックアウトした視覚。
ノイズだらけの聴覚。
統率を失った機体管制野。
穴だらけのデータの記憶野。
混乱の極みの感情野。
もう、手のつけようがない状態だった。外部からの情報も、中枢野からの指示に対する反応も、一切が異常を来たしていた。自身が今どんな状態でどうなっているのかも、ハルカナの中枢野は把握することができないでいる。
何が起きたのか、ハルカナは今になってようやく理解した。ぞっとするほど強力な電磁波のビームを喰らったのだ。あの太ったゴリラみたいな奴の最大の特徴はパワーでも耐久性でもない、電磁波を武器として照射することだったのだ。ハルカナはそれに気付けなかった。あのファイバに関する情報がごっそりと抜け落ちていたからだった。その情報が抜け落ちる原因となったのも、きっとあのファイバなのだろう。ハルカナはそんなことすらも忘れてしまっていたのだ。
情けなさと腹立たしさに感情野が煮えくり返っている。
しかし今はそれどころではない。この状況を早く何とかしないと、アルシノエを守れないどころかハルカナ自身も止めを刺されかねない。あの電磁波野郎を倒せたかどうかも未確認なのだ。
ハルカナはまず、過負荷電圧を受けてショートしてしまった回路の接続をすべて切り捨てて、生きている回路を手当たり次第につないでいった。機能や内容はこの際無視した。最も被害の少ない感情野の回路をベースにして、そこに光学映像デバイスを無理矢理組み込み、感情の記録の中に砂粒のように微かに残されていたデータを掻き集めて無駄とは知りつつも記憶野の修復を行った。「怒り」と「哀しみ」のメモリを一部拝借して、ズタズタになった機体管制野の回路をつぎはぎした。めちゃくちゃなシステムの再構築。回路が絡まった糸のようにこんがらがって運用に冗談では済まされない支障をきたすだろうが、今は時間が惜しい。とにかく早く。とにかく動ければいい。
ブラックアウトしていた光学センサーが、息を吹き返した。
ノイズのせいでずれまくりの、かろうじて認識できる映像。
回線がつながった? 期待を込めてハルカナは注視する。
少しずつノイズが修正されていく視界の中に映ったのは、さっきまでの通路。天地が九十度傾いているのは、ハルカナの身体が倒れているからか。その通路の床の上、ハルカナのすぐそばに、なにか長方形の薄い物体が落ちている。
――なんだこれ?
ノイズが収まる。
その、長方形の薄い物体は、
ノートだった。
ボロボロになった、今どき珍しい紙媒体の、なんの変哲もない無個性な、ただのノートだった。
――なんだっけこれ?
あろうことか、ハルカナはそのノートが何なのか思い出せなくなっていた。
なにか、大事なものだったような気がするのだ。とてもとても大切にしていたものが、あのノートの中に詰め込まれていたように思う。しかし、その、何の装飾も表示も書き込みもない背表紙をいくら眺めていても、ハルカナのズタボロになったメモリが反応を示すことはなかった。
ページをめくれば、あるいは表紙を見ればなにか思い出せそうな気がする。
しかし、ハルカナの機体はピクリとも動いてくれはしない。
どれだけ信号を飛ばしても、ほんの、手を伸ばせば届く距離にあるノートに触れることさえ、今のハルカナにはできなかった。
光学・音響センサーを復旧するのがやっとで、機体の方はどうやっても回路を繋ぐことができなかった。
機体は、完全に壊れてしまったのかもしれなかった。
――だめだ、動かない。どうしよう。
壊れた機体を直す術は、さすがのハルカナにも、ない。
――アルシノエ、無事でいて。ハルカナは、
不意に、
『これ、大事なものでしょ?』
声が聞こえた。
――え、
誰かの足が見え、その誰かにノートが拾い上げられる。
ハルカナは思いきり戸惑う。
いくつもの疑問が瞬間的に人工神経回路網内を駆け巡った。なぜこんなところに人がいるのか。この基地内には誰もいないことは確認したはずだ。アルシノエの足でも声でもない。この人間は一体どこから現れたのか。目の前に現れるまでハルカナはまったく気付けなかった。そして、
誰なのか。
――だれ?
その疑問の答えだけは、すぐにわかった。
ページをめくる音、そして、
『まあ、絵を上手く描く機能はハルカナには必要なものだしね』
聞き覚えのある声。聞き覚えのあるセリフ。有り得ないはずの声。
――あれっ? あれっ? なんでなんでっ? どうしてっ?
顔は見えないけど、間違えるはずがない。
その声は、『メガホイール』にいるはずの、青白い研究員のものだった。
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