第46話 夜の世界⑤
夜は人間の世界じゃない。
知識として知っていたその現実を、アルシノエはいま骨の髄まで実感していた。
月も星も塵によってかき消された夜の世界は、こんなにも濃く、深く、恐ろしいのだ。足音も、呼吸の音も、視界もすべて周囲の闇の中に飲み込まれていく。明かりを灯したいという誘惑がずっと心にこびりついているが、こんなところで灯したら数キロ先からもファイバに見つけられてしまうだろう。アルシノエの数メートル先を行くノビリオルの背中が今にも闇の中に飲み込まれそうになっている。アルシノエは必死になってそれを追う。ノビリオルは歩き始めてから一度もアルシノエを振り返ることはなく、ただひたすら前に前に進んでいく。アルシノエはついていくのでやっとだった。身体が鉛のように重い。ともすると頭がぼーっとなって、いつの間にか下を向いて歩いている。その度にアルシノエは慌てて頭をぶるぶると振る。こんなところでノビリオルを見失うわけにはいかない。もし見失ったらもう二度と見つけられない気がする。
どのくらい進んだんだろう。眠気と疲労で霞がかった頭でアルシノエはぼんやりと思う。
出発してから、一時間は確実に経った。二時間も過ぎたように思う。三時間は、どうだろう。経ったような気もするし、まだかもしれない。荷物の中のゼンマイ時計を見ればわかるが、そこまでする元気も余裕もない。
ハルカナは、いま何してるのかな。
不意に、彼女のことが頭に浮かんだ。
アルシノエたちがいなくなったことに、もう気付いただろうか。気付いたらハルカナはどうするだろう。決まってる、探しに来るはずだ。でも、こんな暗闇の中どこに行ったのかもわからないアルシノエたちを見つけることなんて、ハルカナでも無理な気がする。でもでも、ハルカナならもしかしたら見つけ出すかもしれない。そんな予感がアルシノエにはあった。
ノビリオルはまだまだ進む。
あとどのくらい進めばいいんだろう。アルシノエは半ば棒のようになった足を引きずるようにしてノビリオルについていく。ノビリオルは一晩中歩き続けるつもりだろうか。できれば一度休みたかった。このままだとノビリオルについていけなくなるかもしれない。ノビリオルはずっと、アルシノエのことなどお構いなしに歩き続けている。
油断をすると、心のどこかで出てきたことを後悔しそうだった。夜の暗さも、ファイバのいる大地も、鉄屑だらけの歩きにくさも、アルシノエのことなどお構いなしのノビリオルも、みんなアルシノエを拒絶しているように思えてならない。家族や、ウルティオ・アイルの仲間に会いたいという強い思いがなければ、とっくの昔にアルシノエの心は挫けていただろう。今はその思いだけがアルシノエの足を支えていた。
越えても越えても続く鉄屑の丘に、悪い夢の中に迷い込んだような錯覚を覚える。
アルシノエは知らず知らずのうちに俯いていた顔を上げる。
ところどころ意識が飛んでいる。
疲れと眠気のせいで頭がぼーっとしている。
焦点が合わない。
ぼやけた視界の中に光が見えた。小さな光だ。
喜ぶよりも怪しむよりも先に、夢だと思った。とうとう歩きながら眠るという特殊な技術を身に付けてしまったのだと。
起きろアルシノエ! と思って首を思いきり振り、再び顔を上げるとすぐ近くにノビリオルの背中があった。
ノビリオルは足を止めていた。
アルシノエが声をかけるより先にノビリオルが振り返る。
「――おい! 見ろあれ! 光じゃ!」
びっくりするくらいの大きな声にアルシノエは一瞬焦る。
それから、ノビリオルの言葉の意味に気付いて慌てて指差す方を見直した。
確かに、光があった。
夢だと思っていた光が、本当に彼方にあった。
その光は二つあって、この暗さのせいで距離感がよくわからないが結構遠くに見える。ぼんやりとした光にその周囲が照らし出され、張られた天幕のような三角の影がいくつか見えた。
「きっとあれじゃあ……! あれがわしの仲間に違いないぞぉ……! 合流できたんじゃあ……!」
ノビリオルが感極まったように声を震わす。
アルシノエは言葉もない。全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうだった。
「こ、こうしちゃおれんわい……!」
ノビリオルがよたよたと走り出した。すぐに「ええい邪魔じゃ!」と荷物を放り捨て、ひとりで先に行ってしまう。
「ま、まって……っ」
アルシノエも慌てて追いかけるが、ノビリオルに追いつく体力すら残っていない。歩くのとさほど変わらない速度でのろのろと走り、ノビリオルが放り出していった荷物も拾い上げてふらふらになりながら足を動かす。
ノビリオルはアルシノエを放ったらかしてどんどん先に行く。
アルシノエからはもうほとんどその姿は闇に溶けて見えないが、光を遮る影の動きでどうにかわかる。
――あれ
なにかおかしい。
アルシノエの中に違和感が生まれた。
その正体に、アルシノエはすぐに気付いた。
光だ。
光が見えること、それ自体がすでにおかしいのだ。
こんな夜中に、ファイバのいる鉄砂漠で、こんな遠くからでもわかるような光を出すなんてこと、シーカーならばぜったいに、ぜったいにやらないはずだ。
ここまで歩いてきたアルシノエたちでさえ、やらなかったことなのだから。
だからあれが、シーカーであるはずがない。ぜったいに。
ノビリオルの仲間だって、それを知らないはずがないだろう。
じゃあ、あれはだれ?
いや、
あれはなに?
「……っ、まっ……てっ! ノビ……っ、だめ……っ!」
アルシノエは息も絶え絶えで、まともに叫ぶことすらままならない。
その声は周囲の闇に飲み込まれて、ノビリオルには届かない。
アルシノエは荷物を二つとも放り出し、それでもノビリオルを追う。
こんなところでひとりにされるのはごめんだった。
身軽になったことで少しノビリオルとの差が縮まった。
そしてその分だけ、謎の光に近づくことになった。
もう、かなりはっきりと見える。
あの三角の影が、確かに天幕であることも、その周りに人影みたいなものがいくつか蠢いているのも見て取れた。
でも、
天幕には普通、光を放つ触覚みたいなものなんて生えてはいない。人の腕や首はあんなにゆらゆらと動くほど長くはないし、人間が天幕より高く伸び上がったりもしない。ましてや異様に長い足が天幕につながっているなんておかしい。もちろん普通の天幕には足だって生えてないし、動き出すなんて以ての外だ。
悪い冗談のように自らの足で近づいて来る天幕に、ノビリオルは呆然と足を止めた。目の前で起きていることを、脳が理解することを拒んでいる。
それは数十メートル後方にいるアルシノエもまったく同じだった。
アルシノエが為す術もなく見守る中、ノビリオルの目の前までやって来たひと張りの天幕が、その入口を大きく広げ、ノビリオルを一息に飲み込んだ。
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