第42話 夜の世界①

 最初に拾ったのは音だった。

「――カナ! ハルカナねえ起きてっ!! お願い起きてよぉ!」

 アルシノエの涙にまみれた声。身体に振動を感じる。揺さぶられている。右目はまだノイズの中。光の戻ったハルカナの左目に最初に映ったのは、泣きべそをかいたアルシノエの顔だった。

 ――アルシノエが泣いている――

 ハルカナは倒れていた身体をバネ仕掛けのように跳ね起こした。急いで言葉を紡ぐ。

「どどどどうしましたアルシノエッ? ケガですか傷ですか痛いのですかっ?」

 ハルカナが倒れている間に攻撃でも受けたのか。ハルカナは焦る。

 ハルカナの突然の復活に、アルシノエが豆鉄砲を食らったハトのような顔で固まる。それから一瞬を置いて、憑きものが落ちたように脱力してへたり込んだ。溜息と共に「よかったぁ……」という呟きがこぼれ落ちる。後ろにいたノビリオルも、ホッとしたような表情を浮かべていた。

 どうやらアルシノエが泣いていたのは外傷による苦痛のせいではなかったようだ。ハルカナは理解して、安心した。

 ひとまず落ち着きを取り戻し、ハルカナは次に油断ない目つきで素早く周囲に視線を走らせた。右の光学センサーは未だノイズが晴れない。おそらく、もう使い物にならないだろう。諦めて接続を切る。すぐそばにはバラバラに散った大量の繊維体。中枢繊維体は失ってはいるが、個々の繊維体はまだ生きている。ミミズが這うような動きで、ゆっくりとだが集まろうとしている。のんびりとはしていられない。近くに落ちていたブレードを手に取る。周囲には今のところ怪しい影はない。音響・電磁波各センサーも差し迫った危機を伝えてきてはいない。他のファイバが気づいて集まって来る前に、できるだけ早くここを離れなけれいけない。

 ハルカナは体内時計を確認した。それはまだ狂ったままで、三十六年後の八月十日午前十一時二十九分を表示していた。まったく使い物にならない。一体どのくらい倒れていたのだろう。

「あのっ、アルシノエ、ハルカナはどのくらい倒れていたのでしょうか?」

 アルシノエが呆けた顔を上げる。

「へ……? んー、よくわかんないけど、 ……五分くらい?」

 五分!?

 三百秒も!?

 それだけあれば、ハルカナだったら五キロは移動できるし群体規模レベルBの部隊級は全滅させられる。

 おそらく、多少の誤差を含めて、実際には四分から六分くらいだろうが、いずれにせよ、急がなければならないことには変わりない。

 ハルカナは立ち上がる。

「急ぎます急がなきゃです。ファイバが来るので、すぐに出発しますので、急いで離れますので」

 ファイバ、のひと言の効果は覿面だった。アルシノエがしゃっくりのように息を鋭く吸い込んで、表情を強ばらせる。ノビリオルの顔に緊張感が蘇る。

 それから三人は急いで荷物を集めて、逃げるようにその場を離れた。

 正直、アルシノエとノビリオルの様子に気を配るだけの余裕は、ハルカナにはもう残されていなかった。



 ◆



 プラスチック製の匙が缶詰をつつく音だけが響いている。

 あるいは、その音と缶詰の中の黄色いつぶつぶのみに意識を向けているだけなのかもしれない。

 実際、黄色いつぶつぶの缶詰は我を忘れるくらいに美味しかった。口にしてすぐにアルシノエの大好物になった。こんな美味しいものは、シーカー暮らしの中で一度も食べたことがなかった。もはや、この黄色いつぶつぶを食べることだけがアルシノエの唯一の楽しみといっても過言ではない。特にこの旅においては。

 そもそも、缶詰という食材自体が高級品なのだった。ごくまれに遺跡の中から見つかったりして、目ん玉が飛び出るほどの対価で取引されたりするが、数が少ないからだけだと思っていた。でもこの美味しさを味わった今のアルシノエには、缶詰の本当の価値というものが骨身にしみて理解できた。

 確かに、この美味しさを一度味わってしまえば、ひと月分の食糧と交換しても惜しくはないのかもしれない。

 そんな缶詰を、朝昼晩と毎回食べている今の自分たちはものすごく贅沢なんじゃないだろうか、とふとアルシノエはそんなことを思う。

 この状況が幸せだとは思わないけれど。

 この缶詰も、いつまで食べられるかわかったものじゃないのだし、缶詰がなくなったときが、アルシノエたちの本当の地獄だ。それまでに、どこかには辿り着かなければならない。どこに辿り着くのかはわからないけど。

 ずいぶんと辺りが暗くなってきていた。周囲を壁に囲まれているから余計にそう感じるのかもしれない。小高く積み上がった瓦礫と鉄屑の丘の上に、崩れかけの壁だけが僅かに残る「島」の最終段階。これが全て崩れてしまえばここも鉄砂漠の一部となる。今夜の野営地はその中となった。

 ここまでの旅路で使っていた天幕も荷車も全てメムノンで失ってしまった。今は脱出ポッドの中にあったテントが張ってある。アルシノエの横にあるのがそれだ。それはおもちゃみたいに小さくて風が吹けば飛ばされそうな、丸い屋根をしたテントで、中は三人も寝ればいっぱいになってしまう程度しかない。ただ、その分ものすごく軽く、びっくりするくらい小さく折りたためて、まるで手品みたいに簡単に建てることができた。これもそれなりの価値がつきそう、とアルシノエはついシーカー目線で見てしまう。

 テントのそばにはノビリオルもいて、アルシノエよりも意地汚く缶詰を食い散らかしている。開けた缶詰はすでに四つ目だ。

 ハルカナはひとり、壁の上で座っている。見張り役だそうで、アルシノエとノビリオルのことなどそっちのけで外ばかり見ていた。

 カラコンッ、と軽い金属音。

 見れば、ノビリオルは早くも四つ目の缶詰を空っぽにしたところだった。アルシノエはまだ二個目を食べている途中だというのに。

「うぃぃ。食った食ったぁ満足じゃあ」

 ノビリオルはゲップのひとつでもしそうな様子だ。

 そりゃあ、缶詰をそんだけ食べれば満足もするだろうさ。黄色いつぶつぶをひとつひとつ口に運びながらアルシノエは内心皮肉を垂れる。

 ノビリオルはどっこいせ、と言って立ち上がり、あからさまにハルカナに聞かせるように、

「あぁ~、今日も一日大変じゃったわいのう。一日歩き詰めやったし、ファイバにも出会ってしもうたし。これじゃあ命がいくつあっても足らんわい。老いぼれのわしにはきつい一日じゃったから、わしゃもう寝るとするかいのう」

 そう声を張り上げた。

 アルシノエは急に刺々しくなった空気にどきりとして、思わずハルカナを見た。

 ハルカナは、まるで聞いていなかったかのように無反応だった。

 本当に聞いていなかったのかもしれない。

 チッ、と舌打ちしたのはノビリオルで、さっさとテントの中に入っていった。

 ひとまず何事もなかったことに安心して、アルシノエは小さなため息をこぼした。

 再び静かになる。

 以前はハルカナと二人きりでも全然気にならなかったのに、今は妙に二人でいるのが気まずくアルシノエには感じられた。原因はやはり昨晩のことだし、今日一日のハルカナの様子で薄れるどころかより濃くなった気がした。二人きりになってもハルカナは相変わらず外ばかり見ていて、何も言ってくれない。アルシノエは我慢できず、残りのつぶつぶを一気に掻き込みもぐもぐ食べてすぐに飲み込み、そして立ち上がった。

「――あたしも、もう寝るね」

 ハルカナの反応を窺うように、そっと声をかける。

 ハルカナは動かない。

 アルシノエは早々に諦めて、おやすみ、と小さく呟いてテントの入口を潜った。

「おやすみなさいませ、アルシノエ」

 その背中に、ハルカナの小さなひと言が当たって、落ちた。

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