第34話 空に近い場所⑥

 二人は振り返る。

 奥の扉のところに、壁に手を付いて肩で息をしているノビリオルがいた。

「まったく、なんちゅう、娘らじゃ……っ。置いて、かれるとこ、じゃったわい……っ。もっと年寄りを、労らんかい……っ」

 荒い息を繰り返しながらノビリオルが文句を言うが、アルシノエにはそんなことはどうでもよかった。

「アティカ? の、ぶそうりょだん? なにそれ聞いたことない」

 ノビリオルが何度か深呼吸をして、息を整えてから、

「あんたらシーカーは元々、楽園の星へ行くための手段を探しとった連中じゃろう。んで、街におる連中や坊主どもは星の御使いが助けに来てくれるんを待っとる奴らじゃ。武装旅団はのう、そんな逃げ出すんばっか考えとる連中たぁ違っての、ファイバどもと戦ってこの星を取り戻そうとしとる集団じゃ」

 確かに、この辺りよりもっと西の方では、今でも激しい戦闘が行われているという話はアルシノエも聞いたことがあった。しかしそれは彼女にとって、楽園の星の話や魔法のような技術で造られた旧時代の遺物の話と同じ感覚で語られるものであったのだ。

 それが、なんで、今、こんなところにいるのだろうか。

 ノビリオルがゆっくりと近づいてくる。

「武装旅団はどこも人手不足でのう。そりゃファイバどもと戦っとるから仕方ないんじゃが、なにせ生まれてくる子供の数より死んでいく人の数の方が多いもんでな。数が少ななりすぎると、もう組織としてダメじゃ。あとは全滅するんを待つだけか、どっか別の旅団に吸収されるかじゃ。じゃからどこも人手を確保するのに必死でな、そのためにゃあ人拐いじみたことをしたりもする。ちょうど今のようにの」

「――え?」

 このじじいは一体何を言っているのか。

 このじじいは、なぜこんなに武装旅団とやらのことに詳しいのか。

 ノビリオルがアルシノエの隣まで来た。その目は外の集団に向けられている。

 何か得体の知れないものを感じて、アルシノエはノビリオルから離れる。

 ハルカナは難しい顔をしてアルシノエとノビリオルを見比べているが、絶対に今の状況をよくわかっていないに違いない。

「――あんた、いったいなんなの?」

 心のどこかに生じた怯えを掻き消すように、アルシノエは敵を見る目でノビリオルを睨んだ。

 ノビリオルが振り返る。人の良さそうな笑みを浮かべて。

「彼らを呼んだのはわしじゃ。つまりはそういうことじゃ」

「!」

 やっぱりそうか。こんな虫も殺せなさそうな笑顔もできるくせに、その正体はやっぱり悪い奴だったんだ。ここにずっといたっていうのもどうせウソだ。こいつの言ったことはぜんぶウソに違いない。こいつは、敵だ。

「ハルカナ! そいつは敵! やっつけて!」

 アルシノエの叫びに、しかしハルカナはあからさまに狼狽えて、

「え、え、あの、そんな、敵と言われましても、ハルカナの敵は人類の敵のファイバなので、人類は助けるべき相手なので、ハルカナはみなさん助けたいのですが」

「そうじゃぞちっこいの」

 ノビリオルが悠々とした態度で語りかけてくる。

「敵っちゅうんはファイバのことじゃ。わしらは奴らと戦っとるんじゃから、むしろ味方じゃ。お前さんもあれじゃろ、仲間たちの仇を討ちたくないんかいの? ああいや、まだ生きとるかもしれんのやったっけか、すまんすまん」

「う、うるさいだまれ!」

 アルシノエには言い返す言葉もない。

「さあ、わしらと一緒に来い。歓迎するぞい。あんたらにゃ元気な子供をいっぱい産んでもらわにゃあかんからのう」

「ぜっっったいやだっ!!」

 アルシノエは嫌悪感に顔を歪める。

 そのとき、外から野太い男の声が響いた。

「おぉい! ノビリオル! そんなところにおったんかぁ!」

 ノビリオルが外を振り返る。

「ここじゃここじゃ! ようやっと気づいたかい!」

 アルシノエはこの瞬間、どうすべきか迷った。ノビリオルが後ろを向いているうちに逃げ出そうと思ったのだが、どこに逃げればいいのかわからなかったし、ハルカナは何か外の方ばかり気にし出したし、むしろノビリオルをやっつけた方がいいのかもしれないし、そうこう迷っているうちに状況が一気に動き出した。

 ノビリオルと外の集団との間でどんどんと話が進む。

「お客もそこにおるんかぁ!?」

「娘が二人じゃあ!」

 歓声が上がる。

「よっしゃ! よくやったで! 南の方にも別の集団おるゆう報告あってぇ! そっちにも分隊向かわせた!」

「ほうかぁ! 今回は大漁じゃのう!」

「おうよ! 今から何人かそっちに行かせるで! 逃がすなよ!」

 ヤバいヤバいヤバい! こっちに来る!

 アルシノエは途端に追い詰められて、かくなる上はノビリオルを取っ捕まえてなんとかできないものかと目をやった瞬間、

「わしゃ安全なところで見届けさせてもらうとするかの。なにせ年寄りじゃからの」

 ひらり、と外に開いた入口から見た目に似合わぬ身軽さで身を踊らせた。

「!?」

 アルシノエは驚いて、入口の際に駆け寄り下を覗き込んだ。

 ノビリオルは、ほんの二メートルほど下に設けられた足場の上で尻餅をついていた。

「あたたたた……。慣れんこたぁするもんじゃないのう。落ちるか思たわい」

 腰をさすりながら立ち上がろうとするノビリオルに文句のひとつも言ってやりたかったが、それよりも塔のずっと下の方からあの集団の一部が塔に張り付いて上がってくるのが見えた。アルシノエは本格的に焦る。

「ねえハルカナこのままじゃヤバいよ捕まっちゃうよ! 逃げないと……っ!」

 ハルカナは、恐ろしく真剣な顔をしてずっと下の方を見たまま動かない。

 下の集団は見る見るうちに上がってくる。

 アルシノエはいても立ってもいられない。

「ねえハルカナねえったらねえ!」

「――来ます」

 ハルカナがやっと口を開いたと思ったら、見ればわかることを言っただけだった。アルシノエは苛立つ。このときのハルカナの本物の真剣さに気づけなかった。

「そんなことはわかってんの! だからどうすんの!?」

「奴らです。向こうもとっくにこっちに気づいてますので」

 叫ぶアルシノエを完全に無視して、ハルカナが塔のずっと下を見据えたままそう言った。

「――え?」

 アルシノエは聞き返す。

 そのときだった。

 下から、今までとは違った種類の叫び声が上がった。それは悲鳴にも似ていた。

 アルシノエは再び下を見遣る。登ってくる集団よりもさらに下。塔の根元。

 その鉄砂漠の表面が、真っ黒になっていた。

 ざわざわと蠢く。

 それは、ファイバの群れだった。

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