第16話 目が覚めたなら①

 ここまで来れば大丈夫なので、とその女の人は言った。名前はたぶん、ハルカナ。自分でそう言っていた。

 大丈夫と言われてもアルシノエはハルカナから離れなかった。大きな瓦礫の上に座り込んだハルカナに両腕両脚全部を使って赤子のようにしがみつき、ハルカナの肩に顔を埋めていた。

 ずっと、泣いていた。身体の中の水分が全部なくなるんじゃないかっていうくらい、泣いた。こんなに泣いたのははじめてかもしれない。

 今日一日で、いろんなことがありすぎた。ありすぎて、頭の中が整理できなかった。めちゃくちゃだった。何を考えればいいかもわからなかった。泣いている理由さえ曖昧になった。悲しいのか、怖いのか、自分でもよくわからない。

 そうしているうちに、アルシノエは溶けるように眠りに落ちた。

 夢を見た。

 何のことはない、いつもの生活を送るアルシノエがいた。お父さんがいて、お母さんがいて、兄ちゃんがいた。ガルバもレウコもスラもナシカもいた。変わり映えのしない、そこそこ辛くてそこそこ苦しくてそこそこ退屈な、疲れるだけの穏やかな日々。それがなんだか無性に悲しくて、アルシノエは夢の中でまた、泣いた。

 目が覚める。

 ぼんやりとまぶたを開くと、辺りはすっかり暗くなっていた。どのくらい眠っていたんだろう。最後の搾りかすのような涙が一滴だけ、アルシノエの頬を流れる。ほとんど止むことのない風に肌寒さを感じて、ずっと変わらない姿勢でそこにいたハルカナに強く抱きついた。ハルカナはとっても暖かかった。そしてやわらかい。しあわせ。ほんとに人間みたい。

そこでようやくアルシノエの意識が覚醒した。

 ――うわ、

 自分の状態に気付いて恥ずかしくなる。

 瓦礫に背中を預けて座るハルカナの腰あたりに抱きついて、彼女の足を枕にそれはもうぐっすりと眠っていたのだ。これじゃあシーカー見習いどころか、母親がいないと眠れない子供も同然じゃないか。そんなことを思えるくらいまでにはアルシノエの心も身体も回復していた。

 アルシノエは身を起こす機会をなんとなく失って、眠ったふりを続けながら何とかうまく誤魔化せないものかと頭を悩ませていると、風の音に混じって声が聞こえた。

 ハルカナの声だ。

 ぶつぶつと呟いている。何を言っているかまでは聞き取れない。

 好奇心には勝てず、アルシノエはそっと頭を動かしてハルカナの様子を窺う。

 ハルカナは、アルシノエのことなどそっちのけで、何かの本を食らいつくように読んでいた。

 その本はウルティオ・アイルの老人たちが読むような本に比べてずいぶん薄っぺらく、造りも紙の質も安っぽそうで、表紙に題名らしきものがひとつだけ書いてあるのが見えた。書いてある文字はアルシノエの知らないものだ。

 ハルカナはその本をぺらりぺらりとめくりながら親の敵でも睨み付けるような顔をしてぶつぶつと呟いている。

 じっと見つめるアルシノエにも気付きもしないで。

 けっこうな時間そうしていたように思う。

 しびれを切らしたのはやはりアルシノエの方だった。

 そっと声をかける。

「――あの、」

 反応は予想外に劇的だった。

「っ!!」

 ハルカナは面白いくらいに跳ねた。

 持っていた本を放り投げ、空中で三回転半捻りを加えるそれを二度つかみ損ねて三度目でやっと確保し、物凄い勢いで背中の後ろに隠した。アルシノエにまで焦りが伝染しそうなほどの切羽詰まった顔でハルカナは視線を地球一周分くらいさ迷わせたあと、おもむろに口を開く。

「――は、」

 は?

 アルシノエは固唾を飲んで身構える。

 そして、それは奇襲の如くやって来た。

「は、はじめましてッ!!」

 ハルカナが、これでも食らえ、とでも言うような勢いで叫んで、至近距離から殺人級のお辞儀をかまして来た。

「っ!? っ!!」

 それはお辞儀というよりはほとんど頭突きで、切羽詰まった分だけ一切の躊躇いもなくて、アルシノエが身構えていなければ回避不可能な一撃であった。

 ゴロゴロと瓦礫の上を転がってアルシノエは身を起こす。さっきまでの恥ずかしさとか温もりとかは全部吹っ飛んだ。

 アルシノエもびっくりしたが、ハルカナはそれ以上に泡を食った顔をしていた。見ているこっちが不安になるくらい顔を青ざめさせて、今度は自分とアルシノエとの距離を一度しっかりと見極めてから、地面にめり込むくらい深々と頭を下げる。

「ごごご、ごめんなさいっ! あのっ、あのっ、」

 それからガバッと顔を上げ、右手でこっそりと開いた薄い本にちらりちらりと目をやりながら、

「もっかいっ、もっかいさいしょっからやるのでっ! はじめましてこんにちはっ、第七次方舟計画担当人型救助ロボットのハルカナですっ。えと、『メガホイール』から来ました、それから、機体はイツカドインダストリ製ですっ。ちゃんとエンブレムも入ってますよほらっ。形式番号だって言えます、HRR―I7―003ですっ。あとは、あとは、趣味とか好きなものも言った方がいいのでしょうか?」

 怒濤の勢いで喋り切った。

 アルシノエは口をぽかんと開けて、呆気にとられていた。

 どういう反応を返せばいいのかさっぱりわからない。そもそも、ハルカナの話の内容が半分も理解出来ていない。

 だいなな? はこぶ?

 知らない言葉ばっかりで、異国の人と話しているみたいだった。ハルカナがロボットだということだけはかろうじて理解できたが、それも昼間の活躍を見ていたからにすぎない。

 そんなアルシノエの表情を読み取ってか、ハルカナが再び焦ったように薄い本をすごい勢いでめくり始めた。

「あのですねっ、あのですねっ、つまりどういうことかというと、何を言いたいのかと言いますと、ひとことで言えばですね、あれあれどこだっけ……あ、」

 そこで本をめくる手が止まり、「あった」と心底ほっとしたように呟いてアルシノエに向き直り、実に得意気にこう言った。

「つまりハルカナは、女の子さんたち人類を助けに来たのです! ハルカナの乗ってきた宇宙船「ノア7」で、安心安全快適な宇宙ステーションまでお連れしますので――って、「ノア7」バラバラになってましたどうすればっ!?」

 ハルカナが突然叫んで頭を抱えた。

 アルシノエは相変わらず置いてきぼりである。

 待ってください待ってくださいと呟きながら本とにらめっこしているハルカナを奇妙な生き物でも見るような目で眺めながら、アルシノエはゆっくりと落ち着きを取り戻しつつあった。

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