第3話 車輪の星③
すべてのやるべきことを終えた。
ハルカナが目覚めてから半年と二十五日目のことだった。
その日、ハルカナはぴっかぴかのコンバットスーツに身を包み、「大事なことノート」だけを小脇に抱えて、『メガホイール』シャフト内宙港区画第二ポートのエアロック前に立っていた。
ハルカナの背後にあるエアロックを潜れば、その先には軌道往還機「ノア7」が既に待機している。地球に残された人々を救出するために造られた「ノア7」は、快適さを極限まで犠牲にしてとことんまで詰め込めば千人は収容できる船だ。全長七十五メートル、全幅三十メートル、全高二十メートルの巨体に、しかし乗り込んでいくのはハルカナひとりである。
ハルカナの正面には、第七次方舟計画に関わった人全員が集まっていた。総勢四十二人。これが、以前の計画のときと比べて多いのか少ないのかハルカナにはわからない。でも、みんなと過ごした半年と二十五日の中で欠けていい時間はひとつもなかったと思う。ハルカナの身体を組み上げてくれた若い技術者がいる。ずっと俯いたままで、ハルカナと目を合わせてくれない。青白い研究員は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。そんな顔しないで、ハルカナはきっと帰ってくるから。おやっさんと目が合うと、ふん、とそっぽを向かれた。怒っているように見えたのはなぜだろう。教授はいつものように穏やかに笑っていた。その目がどこか悲しげに感じたのは、ハルカナの情報処理のノイズのせいに違いない。
今日は、待ちに待ったハルカナの出発の日なのだから。
ハルカナは憶えたてのぎこちない敬礼をひとつして、気合満タンの行ってきますを告げた。
くるりと踵を返し、エアロックへゆっくりと歩き出す。シャフト内は無重力で、初めのうちは弄ばれていた電磁吸着ブーツの歩き方も、今はもう立派に慣れた。
「ノア7」に乗り込み、操縦室に入る。
ようこそ、ハルカナ。
と、無加工の電子音声が出迎えてくれた。「ノア7」の操縦支援システムだ。
発進も航路設定も着陸も基本的には全てこの操縦支援システムがやってくれるので、ハルカナは操縦席に座る必要さえない。
ではハルカナの席はどこかというと、操縦室内にでんと置かれた待機カプセル内だ。この中に入って、身体機能・各種センサー類をサスペンド状態にし、三つの副思考野のうち機体管制野と情報処理野をスリープ状態にし、自己診断プログラムを走らせながら二つの反応炉のうちのひとつを停止、もうひとつを維持稼働にだけして燃料を節約しておけば良いのだ。着陸の三十分前になったら操縦支援システムが起こしてくれるので、それまではゆっくりとサスペンドの眠りについていればいい。
それではおやすみなさい、ハルカナ。
その声にハルカナは、おやすみなさい、と返した。カプセルの中からはもう、みんなの顔も『メガホイール』の姿も見えなかった。
カプセルのカバーが閉じ、ハルカナの視覚情報もふつりと切れた。
いつ発進したかも、ハルカナは覚えていない。
それからおよそ一時間と三十八分後、地球上に小さな小さな光がひとつ、瞬いた。
「ノア7」は墜落した。
原因は、不明である。
◆
あれからもう、八十七年と十ヶ月になる。
出発時にセットした体内時計は一秒も休むことなく時を刻み続け、
ハルカナは未だ、眠りから覚めずにいた。
操縦支援システムはついに、ハルカナを起こすことはなかった。
それでもハルカナは今も目覚めの指令を待ち続けている。この先もずっと、待ち続けるだろう。サスペンドの呪いを解くことは、ハルカナ自身にはできないことだから。
「ノア7」に一体何があったのか、ハルカナにはわからない。憶えているのは、カプセルのカバーが閉じられたあと、機体がバラバラになりそうなほどの衝撃と、それによって引き起こされたであろう人工神経回路網の異常な目覚めと、そして二度目の衝撃。それだけだ。電波や音声による通信機能は残念なことに目覚めてはくれなかったので、システムに呼びかけることも『メガホイール』と交信することもできなかった。
ハルカナはそれでも信じている。経過した時間的にも、この状態の中で得られた僅かな情報からも、地球に辿り着けたことは間違いない。地球には防衛軍がいる。きっと、『メガホイール』のみんなのことだ、ハルカナと「ノア7」の異常を察知して何らかの対策を取ってくれているに違いない。みんなは地球には来られないから、防衛軍の方々にハルカナのことをお願いしているはずだ。だからいつか必ずサスペンドの呪いが解かれてカバーが開いて防衛軍の方々が顔を覗かせて「ようこそ地球へ! さあ我々人類を救い出してくれ!」そう言ってくれるに決まっているのだ。ハルカナはその瞬間を明日に夢見て、三万二千六十一回の一日をやり過ごしてきたのだ。明日こそは、明日こそはきっと来てくれる。ハルカナはいつまでもそう信じている。
……とはいえ、八十七年と十ヶ月はハルカナにとっても決して短い年月ではない。それまでずっと動かしてなかった身体が、「そのとき」にちゃんと動いてくれるかどうか心配だった。維持稼働とはいえ、八十七年と十ヶ月という時間はハルカナのエネルギーの三割近くを奪っていった。自己診断プログラムなんてとっくの昔に機能しなくなっていたから、機体管制野が目を覚ましたときどんなことになっているか想像もつかない。異常な衝撃によって無理やり叩き起された情報処理野は、ずいぶん前からカプセルが瓦礫の中に埋もれてしまっていることに気付いていた。そのせいでハルカナを見つけるのに手間取っているのかもしれない。
そして、ハルカナにとってさえ長いと感じる八十七年と十ヶ月だ、人間にしてみればそれは絶望的な長さであることも、ハルカナにはわかっていた。
八十七年前に生きていた者が、今はどれだけ生き永らえているか――
ハルカナはその問いに対する答えを、統計と確率を以ってしか出すことができない。
――『メガホイール』のみんなは、まだいる?
――地球の人たちは、ぶじ?
それを思うとき、ハルカナの人工神経回路網に数値やデータでは表せないノイズが走ることがある。
そんなとき、ハルカナは記憶を読み返すのだ。
ハルカナが『メガホイール』で過ごした、宝物のような半年と二十五日間のことを。
それは、人間に例えるなら「夢」と呼べるものだったのかもしれない。
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