三章 死体は温泉に入りましょう
三章 死体は温泉に入りましょう 1—1
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「じゃあ、あたしら、くらま温泉、行くからね。美人の湯ぅ」
会談終わりに、今井さんが言った。
蘭さんが打ちのめされて、タタミに両手をつく。
「温泉……」
蘭さんが落胆してるのは、締め切りのせいではない。蘭さんは一生、温泉に行けない体だからだ。
それどころか、プールや海水浴もアウト。なにしろ、服きてて、あのさわぎなのに。ぬいだら、どうなっちゃうんだか。蘭さんの全裸を人前にさらすなんて、恐ろしくてできない。
「ムリだよ。蘭さん。温泉なんて、知らない人が大勢入ってくるんだよ。蘭さん、おそわれちゃう」
「わかってます。かーくん。けどね、僕、一度も温泉、行ったことないんですよ。一生に一度でいいから、大浴場、入ってみたい」
「貸し切りじゃないとムリだろうな」と、猛。
「それか、僕ら以外、客のなさそうな、すっごいさびれた秘境の旅館で、入口を僕と猛が見張ってる」
今井さん、ざんこくにも笑った。
「美形の悩みだねえ。ザンネン。美青年ひきつれて、温泉、行きたかったよ。じゃあねえ」
猛が引き止めた。ナンパのためではない。事件の証人だからだ。
「今井さん。いつまで、こっちにいるんですか?」
「自由業だからねえ。祇園祭、見物してから帰る。夏休み、まんきつしなくちゃ」
「見物って、巡行ですよね?」
「もちろん」
じゃあ、十七日までは京都にいるのか。
「君たちの呼びだしなら、いつでもオッケーだよ。ほいほいメールして」
ホイホイって……ありがたい証人だ。
今井さんたちは去っていった。
僕ら四人が食事処を出たとき、やじうまは多少、へっていた。あくまで、多少ね。炎天下で待ちかまえている人も、かなりいた。
蘭さんは舌打ちついて(あ、蘭さんの黒い部分が……)、日傘をさした。
「蘭、やっぱ、そのカッコよせよ。かえって人が寄ってくる」
「ですね」
「京都で着物って、なんかのイベントっぽいんだよね。とくに蘭さんが着ると」
じっさい、多くの人たちはドラマの撮影だと勘違いしている。
「カメラいないよ」
「望遠じゃない?」
とか話す人の群れのなかをつっきって、僕らは通りへ向かう。
だが、通りに近いがわの出口は人の壁でふさがれている。
しかたなく、遠いほうの出口へ。つまり、行きに入ってきたほうだ。通ってきたみた道を逆光する形になった。
とにかく、一刻も早く堀川通に行って、タクシーひろわなきゃ。
と、そのときだ。
とつぜん、蘭さんの前に、ガイジンさんが、とびだしてきた。リュック背負って、カメラぶらさげた観光客だ。
「おお、ビューティフル。ゲイシャガール」とかなんとか言って、蘭さんに写真撮影をもとめる。
蘭さんは、きぜんと「ノー」を連発。
しかし、ガイジンさんは、しつこかった。蘭さんの魅力は万国共通か。
あんまり、しつこいので、猛があいだに入る。
「薫、三村。蘭をつれてけ」
「わかった」
そこからはラグビー状態だ。
撮影ではないらしい、着物コスプレの一般人らしい、と悟った人々は、いっせいに突進してくる。
握手してください、写真とらせてと、さけぶ人たちをさけては走り、走ってはよける。
猛が、その人たちをかきわけつつ、僕らのあとを追ってくる。
僕らは走った。
三村くんがタックルを受けて、ころんだ。
蘭さんは走るのにジャマな日傘をすてた。けど、ゾウリばきが祟ったね。思うようにスピードが出ない。
(もう兄ちゃんも三村くんもいない。僕が蘭さんを守らないと)
あ、だれか、僕をなぐった。
「勝手につれてくなよ」と、ののしられた。
なんで、こんなことになったんだろう?
ここは神泉苑のはずだ。ラグビー場じゃない。平安の御代には貴族たちが和歌をよんだ風雅な場所ではないのか。なのに、このタックルの嵐。
ついに、僕は、つきとばされて、すっころんだ。たいして痛くはないが、蘭さんがピンチだ。
ガイジンさんに囲まれ、「ゲイシャガール」の攻撃を受けている。ガールではないというのに。
「蘭さーん、逃げてぇ」
なさけない声で、僕は、さけんだ。
蘭さんは行く手をはばむ外人の壁を突破しようと、池のふちに近づいた。
そのときだ。僕は見た。
巨大な西洋人の壁の向こうから伸びた、二本の腕を。
その手は思いっきり、蘭さんをつきとばした。池のほうへ——
「蘭さん!」
バランスをくずした蘭さんが、よろめく。うるわしい和風コスプレ姿は虚空へ舞いおちた。
ぎゃあッ、五百万の着物が水びたし!——いや、違った。蘭さんが水びたし。ていうか、蘭さん、泳げるのか?
と、思った瞬間だ。
力強く伸びた手が、ハッシと蘭さんの腕をつかむ。蘭さんは水面に落ちるギリギリ直前で、宙ぶらりんになった。
よかった。五百万が水びたしにならなくて……違う。蘭さんが水びたしにならなくて。
「薫! ぼんやりするな。手伝え!」
見れば、池の端で、蘭さん、つかまえてるのは猛だ。
さすが、兄ちゃん。カッコイイ……。
僕は命じられるままに、蘭さんのもう片方の手をつかんだ。
すると、外人さんたちが我も我もとよってきた。レスキューとフェミニズムに厚い人たちだ。サンキュー。サンキュー。
おかげで、蘭さんは、ぶじ、着水することなく地上へ生還した。
この光景を周囲の日本人どもは、バシャバシャ、スマホにおさめていたが。
助けあげられた蘭さんは、恐怖にふるえて——は、いなかった。
「ああ、もう、好きに撮りな。どうせ、このカッコは今日かぎりだ」
ふてくされて地面にすわりこみ、スパスパ、たばこを吸い始める。
これがまた正体を知られた弁天小僧菊之助ってていで、やにクールなんだけどさ。
僕らは救助を手伝ってくれた外人さんたちと肩をくみ、カメラに向かってピースサインを作った。
笑顔で写真を撮りながら、小声で、ささやきあう。
「見たよ。蘭さん、つきおとされたんでしょ?」
「うん。この人たちのかげになって、姿は見えなかったけど」
「事故じゃないのか? 蘭の手をつかんで、引きよせようとしたとか」
「そんなんじゃなかったよね」
「はっきり、押されましたね」
「蘭さん、泳げるの?」
「いちおう、百メートルくらいは。でも、最後にプール入ったの、中学のときだから、自信ないです」
「ああ、高校、男子校だったもんね」
「肌の露出は、きょくりょく、さけてましたねえ。体操服でもギリな感じ」
男子校に蘭さん……危険すぎる。
「またストーカーかなあ」
「警察、呼ぶか?」
「いいですよ。なんとか、助かったし」
「ほっとくとエスカレートするぞ」
「次は捕まえましょう。じゃないと、被害届だすだけじゃ、警察行っても、ムダに時間食うだけ」
それは言えてるか。
池に落とされてるから、りっぱに傷害未遂だが、顔も見てない。犯人の身元を特定できるとは思えない。
しょうがない。今日のところは泣き寝入りだ。
僕らはタクシーをひろって、五条の自宅に帰った。このとき、正午すぎ。
居間でハカマをぬぎながら、蘭さんは、ため息。お願い。僕らの前でも、もうちょっと肌の露出ひかえて。
つきとばされたのが、そんなにショックだったのか?
いや、そうではない。
「いいな……温泉」
そっちか!
蘭さん、まだ、ひきずってた。
すると、猛がいらないこと言って、そそのかす。
「大浴場はムリでも、個室に露天ぶろ、そなえつけた温泉旅館なら? ふんいきは楽しめる」
「ああッ、それ! なんで今まで思いつかなかったんだろう。大浴場に、こだわりすぎてました」
「でも、蘭さん、しめきりが……」
「今日、三十日でしょ。帰ってから頑張れば、まにあう! 宵宵宮までには、充分、いけます。有馬や草津はきびしくても、鞍馬くらいなら」
ダメだ。蘭さんの、この目の輝き。とても、止められない。
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