蝶と捕虫網~蝶との邂逅~

湊歌淚夜

第1話

1:鶴久悠耶の学生時代の記憶は、とある路地裏から始まる。炎天下の青白い空の下、汗が額に一筋の線を描く。それは、夏に誘発されたものなのかどうか、考える余地をその時は持ち合わせていなかったのだった。

「私と、付き合ってください」

汗が噴き出して、悠耶は脳を蒸し上げられる心地だった。彼自身こういった状況に直面した前例がなく、ばつの悪さに内省するけど、そいつに苛まれた気になって何だか胸中には靄が居座っている。悠耶は彼女の目をはっきりと見た。その瞳に渦巻く感情の色がわかるはずもなく、引き込まれそうな黒さの中に覗く茶色はなんだかこのままでいたいという気持ちへアクセルを踏み込ませる。

「・・・・・・喜んで」

我ながら受け答えが不可思議なものになってしまい、緊張感が夏の暑さに乗じて逃げ出してしまったようだ。ふと二人の間に笑顔があふれる。笑い声は夏の空気に溶かされて消え、そよ風はそれをどこか遠い所へ連れ去っていく。彼女は互いに笑いが収まったタイミングを見計らい、距離を詰めた。唇に触れる柔らかな感触。触れたところから解けていくような、まるでサイケデリックに捕われた心地だった。

「……奪っちゃいましたね」

ふんわりとしていた意識が引き戻されて、悠耶は顔が紅潮するのを感じた。キスの感触に思考が割かれ、熱が湧き上がってくる。慣れない感覚が自分を侵してくるのをそれがまるで暗黙の了解であるように、享受してしまった。彼女はこちらを覗き込むと、小悪魔のようにくすりと微笑んだ。その表情からはいたずら好きな子供みたいな無邪気差に潜む、どろりと溢れる欲望が見えたような気がして、背筋をかけるナメクジは嫌に不快感を残しきえていった。


あの日のことは今を鮮明に覚えていて、だけどどうしてか思い出せない、深淵に溶けた1つの欠片がそこにはあった。


―彼女は一体誰だったんだ?


紫がかる夕空の下、ぼんやりとした脳裏に映っていたのは件の少女であった。年は悠耶と変わらないくらい、であるからちょうど18歳くらいだろうか。漂う雰囲気は異国の香りがしたけど、あからさまに外国の匂いがしなかった。異国というより、異界の人であると思われる。出会ったことの無い非日常に触れたような気分で、何だか胸中には妙な期待感と不安感が肩身を寄せて居座っていた。そんなそわそわした中で彼は蝶と出会った。出会いと言うより邂逅と言うべきか。僕はその目で自然に存在する天使を見つけた。月明かりに照らされ、青白い鱗粉を撒きながら舞う様は彼らが天使と呼ばれる所以なのだろうと、呆気にとられていた。その蝶は悠耶の周りをくるりと舞ってどこかへ飛び去って行った。

肩に乗っていた羽根の欠片を手に取る。

月の光が透き通り、青紫の羽は彼女の面影を匂わせながら蠱惑的に輝いた。羽根が月光に溶けてしまいそうな気がして、その羽根を小さなジップロックに閉じ込める。時間がそこに集約されたような心地がして、胸に空虚さを覚えた。後でこの羽根は栞にしておこう、そう思いながら悠耶は帰路に着いたのだった。


家に帰ると、祭壇で祈りを捧げることにした。この国で信奉される宗教において、蝶の持つ役割はかなり大切なものである。


―蝶は神が遣わした、地上の天使である。彼らは神の恩恵の具現であり、恩寵そのものだ。私たちは彼らを信仰することを約束されている。

(聖典 第6章(追記)-4.信仰の法)


この文章は宗教の経典である「聖典」の中にある、蝶に関する言及されている部分を抜粋した。この国の中心にある書であるため、蝶を尊ぶ文化が存在しているのだ。誰しもが蝶を飼い、祈りを捧げるというライフサイクルが先人達から引き継がれている。そういったことに大して興味のない悠耶ですら、面倒くささも覚えつつ、さも常識であるように習慣として根付いていた。このように落ちていた蝶の羽は、穢れたものとして忌み嫌われる。地に堕ちた蝶の羽。だけど、僕にはどうしてもそれを捨てることは出来なかった。胸の中で湧き上がる炭酸のような苦しさが自分を締め付ける感覚が悠耶に何かを伝えようとしているようだったけど、気にも留めていなかった。多分、この羽を持つ罪悪感のせいだろうか。そう思いながら目を閉じ静かに祈りを捧ぐ。目を閉じる前、ふと視界に映った三日月が寂しげにぽつりと夜に浮かんでいた。



2:恋の炎は容易に消せるほどヤワなものでは無いらしい。告白も、キスもされた身でそれまであった全てを「あれは夢だった」と否定出来ず、悶々と暮らしていた。あの蝶の落とした羽根は栞にして聖典へ挟んである。羽根の失った天使は、死んだも当然だと記されているが、こうやって持っていると罪悪感が泡沫のように浮かんでは消えていく。彼女の面影が簡単に捨てられないという、そんな独断から身近に置いているけど誰からともなく押された「常識はずれ」の烙印が胸でじゅくじゅくと疼いていた。

「悠耶さん、ご飯行きませんか」

そう肩を叩かれて、悠耶の考えは空中に霧散した。あまり友人がいない悠耶にとって、呼び止められる経験といえば指折り数えられるほどだった。文学部で共に肩を並べる仲の霧翠 京良(むすい きょうら)はこちらに軽く微笑む。絵に書いたような好青年の瞳の底にある黒さが何故か感じ取れる。

「あぁ、構わないけど」

悠耶は高校1年の夏から親と別居している。料理の腕はそれなりには上達はしたけれど、まだまだ他人に振る舞える程ではないし、1人の食卓の虚しさはまだまだ不安感が付きまとう。だからそういう食事の誘いは嬉しかったりする。京良は目元を緩め、優しげな表情をしていた。


自宅は学校から離れた、町外れの大きな民家。築50年は下らないであろう年季が節々から感じ取れる趣のあるこの家が京良の自宅らしい。なぜ自宅に?と疑問を抱いたけど、それは風に吹き消えることになる。

「ゆっくり、作品についてお話したくて」

と切り出された時には妙に張り詰めていたはずの雰囲気がどこかで破裂してずっこけたようだった。なんだか気が抜けてしまってだけど、年季ゆえの荘厳な雰囲気はどこか馴染まなくて気が緩む隙を与えられない。出された緑茶を飲みながら、こうやって落ち着いて話す時間はなかったとその時間の中で流れを感じていた。

「いつから文芸部に入ろうなんて思ったのですか?」

そう問われると、お茶を飲む手が止まる。考えもなく入ったなど言えたものでは無い。けれど彼に嘘をつくのはそれで、共に往く仲であるこの関係を覚ます要因になり得てしまう。そうやって思考の循環が負の領域に及んで、そのまま落ちていきそうになる。

「……悠耶さん?」

こちらの表情を覗き込んだ京良の瞳に心配の闇が灯っていた。たらりと垂れる汗が一筋、光を反射する。悠耶は京良と見つめ合い、それからこう呟く。

「……いや、考え事」

お茶を啜る。湧き上がった思いも記憶もこのお茶とともに飲み干してしまいたかった。頭の中で雑多な色彩が互いに相反しあい、脳内で掻き回される。誰かにその空気を壊してほしいけれど、けれど、その誰かはここにはいない。

「まぁ実際、文芸部に入ったのは楽そうだったからなんだよね……」

空気が重苦しくなる予感がして、悠耶はこのことを告げるのは避けていた。京良はくすりと笑うと、それを皮切りに笑い声が大きくなる。一世一代の大告白をしたつもりなのに、それが周知の事実だったかのような彼の表情を見ると自分の努力を無駄にした心地で、胸がざわついた。

「知ってましたよ。だけどこうやって、君の口から告げられたのは初めてですけどね」

京良の口をついて出た言葉の弾丸は、心の柔らかな部分に突き刺さる。でもその痛みは自然に受け入れることが出来てしまった。心のざわつきが大きくなり、自分の中に抑え込むにしては余りにも強大なものだったのかもしれない。ぽろり。零れたものが汗や雨ではないのが直ぐにわかった。人前で泣く機会なんてそう多くはなくて、涙はどこか弱さを投影する鏡だとも思っていたからこそ泣いていることが恥ずかしかった。誰かから聞いた「泣くのは弱さなんかじゃない」って言葉がどうにも嘘くさくて、飴のように口の中で留めるだけにしているからかもしれないけど、こんな妙に酸っぱいだけの飴なんてそのままゴミ箱行きのはずなのだけど、単に酸味ばかりではないから意外とクセになっていた。

はい、と京良から渡されたハンカチにまた目頭が熱くなる。あれだけ弱さを見せたはずなのに、また溢れ出す。拒否の意志を示しても深層には刺さらずに、ただ脳裏を痺れさせた。自分に後ろめたさを覚えながらも京良の優しさに包まれ、心の底を優しくくすぐられる。

「ごめんな、せっかく誘ってもらったのに」泣き止んだ声は少し上擦って感じた。京良は相も変わらず天使とも形容できる表情で、モヤつく心を浄化してくれそうだ。まるでそんなことも計算内であったようなその青い瞳は心の底を射抜いていた。

「いえいえ、思ったことを話していただけて幸いです。」

京良と別れたあとも何だか胸が火傷の後のようにヒリヒリと痛む。夜道を歩く足取りも覚束無かった。頭の中はふんわりとしていて、夢の中にいるような錯覚に陥る。逍遥する夜の街は何処か冷めた色彩を帯びて、昼間の賑やかしさと対照的に映る。寂しげに眠る狭い箱庭に閉じこめられた小さな宝石が感じられた。それらによる営みがいわゆる社会なのだろう。そんなことに気がついても何も得はないのだろうけど。


3:夜空はただ僕らを無機質に包み込む。その冷たさに心が惹きつけられて、心の奥底にあった寂寥の種が月光で育っていく。1人の帰路はその種のせいか、いつにも増して長い道に感ぜられた。あの蝶とその奥でちらつく彼女の面影が思われて、悠耶の足取りが考えにからめとられ速度をいつもより遅くしている。


「あら、先輩じゃないですか」

声色はあの時のまま暗さを孕み、背筋を指先でなぞられるような不快感で思い出す。だけどあの時の彼女とは違うと本能が騒ぐような気がして、悠耶は体の自由をこの夜闇に奪われたように動けずにいた。

「何で……?」

問いばかりが溢れて、悠耶の頭はショート寸前だった。夢や幻の類だと割り切っていたはずの事象が再び掘り返されて、むず痒さが湧き上がる。彼女はくすくすと嘲た笑いを漏らしてから言葉を紡いだ。

「先輩は知らなくていいことです……。」

その言葉は悠耶の心の底を静かに貫く。彼女の他人行儀さは冷たいようで、その檻の中にいる本心の温かさが垣間見える気がした。

彼女は指に一匹の蝶がとまる。安息地を見つけた旅人のごとく、その紫に輝く羽を休めている。その蝶に向く彼女の視線は聖母のように暖かく見えた。

「特に用件はないのか……?」

悠耶の脳裏はこれまでにないほど回転し、ショートしてしまっていたのかもしれない。ふと口をついて出てきた言葉がそいつだった。

彼女は想定内だと言わないばかりの涼しげな表情でこちらを見つめている。

「無くはないですよ。悠耶さん」

彼女は手を差し出して、鳥籠の姫君を救い出す王子のような、希望を閉じ込めた宝石のような瞳でこちらを見つめてくる。蝶は虚空に消えていき紫の鱗粉が空に舞い上がり、空気に溶かされていく。その情景はまるで魔法だった。

「……それが今とは言えないでしょうけど」

それだけを言い放つと彼女の体もまるで鱗粉のようになり、溶け消える。まるで物語の型枠に肩を寄せていたかのような感覚から解き放たれて、全身の力が抜けて座り込んでしまった。


4:奇妙が過ぎる体験のせいで、悠耶は幻想文学の世界に閉じ込められていたようだった。ここ数日は彼女のことで思考回路は手一杯で、半ば上の空で現実から切り離されたあたりを漂っていた。悠耶は教室で1人突っ伏して悶々とした心地のまま、昨日のことを脳内で何度もリプレイをかけていた。

「悠耶~?……寝てる?」

夢うつつに聞くその声はあまりにもふんわりとしていて、夢の中に引き込まれてしまいそうだった。その声の主は、頬を何度か突っついた後に悠耶の元を去っていく。

何事かと体を起こすと、机の上に封筒がひとつ、ポツリと置いてあった。少し厚みを持つ小さな茶封筒。中には黒いUSBメモリと1枚の手紙が入っており、一見しただけでは内容を窺い知ることは出来ない。それに同封される手紙は古びていて、少し色褪せている。ボールペンの筆跡も心做しか青みを帯びて見えた。


奇跡の範疇にしか生きられない神の使いなど、なんの意味があろうか。私はそう考え、彼らの存在を探求した。人知を超えるというのはあまりにも容易で、いや、寧ろ私達は本能的に人知を定義し、見て見ぬふりを演じてきた可能性さえある。そんな私の思索―それは私自身とも言えるかもしれない―を1本のUSBへ詰め込んだ。これは星砂のようにも、悪魔そのものにも、見えるかもしれない。そうであっても構わないが、これは私の証明であって真偽などは二の次である。君には僕が見えているのなら、私はそれで僥倖だ。


そこには静謐に、達筆なカーシヴで「T.Y.」の文字列がが眠りについていた。同じ頭文字のよしみか、それが他人によって書かれた文章ではないような気がしてならない。T.Y.は鶴久悠耶であって鶴久悠耶ではないという脳内の矛盾はまるでテセウスの船を彷彿とさせ、彼自身の思索はその船で自分を暗夜への旅路に放り込んだ。

「悠耶……?」

普段話しかけてくることの無いはずのスクールカーストの上位に立つような生徒すら、その声色に心配を含んでいて、悠耶は暗夜行路から弾き出され現実の眩さに晒されたかのように目をぱちくりとさせる。彼のその少し引き気味な瞳の色から相当暗い表情をしていたのだろうとはっきりとわかった。目が会った瞬間に何かを思い出したかのように去っていき、少し前までは出ていた溜息は出尽くしたようで、瞬きをした。その反動で口をついて出たのはたった一言。

「つまんな……」

黒い桜のひとひらが教室の騒がしさの中に吸い込まれていく。生憎自傷症では無いものだから自分の内側の自浄など容易くできるはずもなく、どんよりとしたヘドロが胸の中のパイプに詰まり、それが自分の首を締める感覚だけが唯一の癒しだったのかもしれない。自浄は必ずしも文字通り透明な炭酸水らしさを秘めているわけではないみたいで、そんなに綺麗なものでは無いようだ。


5:自宅に帰り、すぐパソコンへ向かった悠耶を迎えたのはUSBの中に陳列された文章群だった。000から始まり、項目数は優に160項目を超えており頭を抱えたくなった。まずは000「はじめに~私の希望~」というファイルを開く。


はじめまして。多分このファイルが開かれたということは、私はとうに到達してはいけない神域にでも踏み込んでしまったのだろう。


まるで自分の顛末を悟っているかのようなその言い草で、彼がもうこの世にいないことは容易に想像ができた。


さて、これから私の知る全てを約160ほどの項目にわけて文章にするわけだが、1つ願いを聞いて欲しいのだ。いや、こんなものは最後に書けばいいという反論は道端にでも植えてやってくれ。その方が都合がいい。それで私の願いというのは、「あの村」にいるカルナという名の少女に言伝を頼みたいわけだ。


その言伝の内容に卒倒し、私はファイルを閉じた。偶然、そのファイルがそれだけで終わっていて良かったと冷や汗が滝のように溢れる。今の状況で誰かしらに話しかけられたら間違いなく心臓が口からとびだすかもしれなかった。突然に勇者だと囃し立てられて、やってやる、なんて思えるタイプではないから微塵も嬉しさを覚えないけれど、何故かこの言伝を伝えなければいけない人物の顔は自分の脳裏をチラついて、その事を考えると驚きは胸の高鳴りに勝手に変換されていく。


夏空の下の告白、あの彼女の表情。嘘だと言われていたはずなのに悠耶は真意があるような気がしてむず痒さが払拭しきれずにいた。多分真意なんて毛頭ないだろうに、最後の足掻きをしたかった。諦めが悪いことは分かっていたけれど、そうそう諦めがつくのなら楽だっただろうに。


悠耶はT.Y.が書いた文章を読みながら、夜を越える。感傷的な心地で読み進める彼の言葉はじんわりと青春の傷をくすぐられる心地に

むず痒さを覚えると同時に心の奥底をまさぐられる妙な不快感が訪れて悠耶は目を細めた。淡い青春譚などはそこに見出すことは出来ないから、と夜空に揺蕩う星に手を伸ばす。少年の期待は星屑のように黒い夜空に溶け出し、溜息だけが胸の空っぽなところに残っていた。

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