4章:震災

 2011年、治療が始まって半年。自分では意識出来ていませんでしたが、この頃の状況は肉体的にも精神的にも比較的安定していたようです。しかし、今になってみればそう実感できますが、その時はそうではありませんでした。

 そして、医者に行ってから1週間後の2011年3月11日、東北地方を震災が襲いました。


 私はサラリーマン時代、とある会社の仙台支社に配属されていました。肩書きはコピーライターでしたが、実際にはコピー仕事はほとんどなく、金勘定以外は全部やっていました。ですから仕事の出張で盛岡・釜石・八戸に行き、プライベートでも松島・石巻に足を伸ばしたことがありました。

 つまり、被災した地域の多くに馴染みがあったわけです。会社の元同僚や知り合いも何人かいます。

 そんな東北の被災の状況をテレビで茫然としながら見るしかない。見慣れた仙台空港や石巻、釜石が津波に飲まれていく。挙げ句の果てに福島では原発が危ない。

 恐らく、日本中の、いや、世界中の人が己の無力感を感じた時だったでしょう。絶望的な気分になりながら、それでも画面から目を離すことは出来ませんでした。


 私にとって震災の影響はそれだけではありませんでした。数日たって医者に連絡すると、漢方薬の工場が茨城にあり、被災したので出荷が滞っている。テストステロンも2回分に小分けされたアンプルの在庫がなく、大きい物しかないので月1回にするとのこと。これで次回は4月末まで行けなくなったのです。2ヶ月近くテストステロン注射が出来なくなったわけです。

 そこに追い打ちがかかりました。

 新企画のプロットについてメールでやりとりしていた**文庫の担当さんからダメ出しを食らったのです。それも指摘したことがまったく変わっていない。やる気がないならもう終わりという最後通告でした。自分ではずいぶん変えたつもりでしたし、編集さんとしては発破をかけたつもりだったのでしょう。しかし、その時の私には死刑判決にも等しかったのです。なんと言ってもタイミングが最悪でした。

 被災地に助けに行く体力もなく、寄付する金もなく、今している仕事はもうすぐ終わりで、次の仕事は未定。新企画は始まる前から不要と宣告された。

 もう終わりだな、と思った瞬間、世界から音が消えました。貧血で失神する寸前のような感覚が襲い、全身の力が抜けた時、目に入ったのはナイフ。カッターナイフではなく、工作用のゴツいヤツ。よく斬れます。

 ああ、そこしかないよなと思った瞬間、不意に耳に飛び込んできたのは笑い声でした。

 この日、相方は休みで、友人が来ていたのです。


 あの時、笑い声がなければどうなっていたか、自分でもわかりません。

 我に返って編集さんにメールを書きました。最初の文面はあまりにも取り乱していて情けなかったので消して、書き直しました。それでもずいぶん女々しいものだったのでしょう。なんせ泣きながら書いたのですから。今の状態では出来そうもありません、すみませんと。

 それ以来、連絡は来ていないし、私も連絡していません。いや、出来ないのです。ネットなどでその編集さんの名前を見る度に、鼓動が速くなり、不安感が押し寄せてきます。ご本人にはまったくそんなつもりはなかっただろうし、不出来な作家に対するごく普通の対応だったのだと思います。ただ、友人限定のSNSでこちらの病状を書いていたので、こちらの状況をご存じだったのにという思いが、余計に衝撃を強く感じさせてしまったのかもしれません。


 ただ、この経験でわかったことがあります。

 いじめや過労で自死を選ぶ人が絶えない。そんなことをする前にどうして誰かに相談しないのか。恐らく誰もが感じる疑問への答えです。

 できないのです。思いつかないのです。

 自殺とは自分で選ぶものではないのです。選ばされるものなのです。他に道などない。その道を進むように周囲から意識的無意識的問わずに圧力をかけられ、デッドエンドに向かって歩かされるものなのです。他にあるはずの脇道は見えません。だから、他の誰かが脇道があるよと光で照らしてあげるしかないのだ、と。


 5月になって病院通いを再開しましたが、先のことを考えて不安になった私はこれ以上の治療継続を断念しました。治療費がかなり負担になっていたのです。

 この頃になると生活費が足りなくなり、銀行に借金ができていました。その上、今の仕事である『斬光のバーンエルラ』は4巻で終わり。その後が決まらない。治療費は高額ではないとは言え、今の財政状況にはかなりの負担ですし、しかも、効果は微妙。なんとかなるんじゃないかという甘い見立てでした。

 今から思えば完全な判断ミスです。続けていけば今頃は快癒していたかもしれません。

 しかし、その時はそれ以外になかったのも事実。

 この時、相方は仕事をしていませんでした。主に児童関係のボランティアで、経費として小遣い程度をもらっていただけでした。児童関係の仕事はなかなかいい条件の物がないのです。仕事を探しあてたのは、その年の夏でした。非常勤採用が、2ヶ月後には常勤採用になり、あっという間に年収がこの時の私を超えました。はい、相方はこの分野では有能なのです。

 翌年の2012年。ついに収入のなくなった私はそれを打ち明け、生活費を相方に出してもらうことになりました。

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