第3話 味方

 終わりのない悪夢。彼はただひたすら走った。待ちかまえている者たちの数がじょじょに減り、やがて石つぶてが彼に当たらなくなり、飛んでこなくなった。それでも走るのをやめず、長い時間をかけて山のいただきまでのぼると、ようやくレノーは立ち止まり、その場に倒れ込んだ。

 背中が痛む。仰向あおむけになれない。いく度か卵大たまごだいの石が背骨に当たっていて、そこがずきずきとうずいた。山の上に吹く風は心地よく、彼をなぐさめてくれたが、どうしようもない恐怖が彼を支配していた。山を下りて、沼地を越えなければならない。逃げることは出来なかった。その証拠に、彼はまだ一人ぼっちではなかった。二人の男たちが近づいてくる。レノーを沼地へと追い立てる、番人だった。弓矢や手斧ておのを持っている。よく知っている男たちだ。


「レノー」


 一人が言った。


「急いだ方がいい。沼地で夜になったら終わりだ」


 男はレジーという名の猟師りょうしで、レノーの父の友人だった。礼を言うと、二人は彼に手をしてくれた。やっと立ち上がる。三人で村と反対側の山道やまみちくだり始めた。男たちはつとめて彼の気を楽にしようとした。


「何でお前がな、レノー」

 レジーは彼に同情的だった。彼もまた幼い頃からレジーになついていた。

「レノーがクフィーニスだと? ふん、ちょっくられたが雪の重みで倒れただけじゃないか。何でこの子をあんな所に送り込まなければならない? 村もおきてもばかばかしい。この赤い手は何だ? 『あかし』を手に入れて戻って来ても、一生赤いままなんだぞ」

 レジーにもう一人が気をつけろ、と言った。おきてさからうのは自分のためにならない、と注意した。

「レジー」

 だまんでしまった猟師りょうし——レノーはあんな風になりたかった——に彼は話しかけた。

「沼地がどこまで広がっているか、わかる?」

 するともう一人がそれをさえぎった。

「それを教えることは禁止されている」

 レジーは黙ったままだった。レノーは目の前が真っ暗になった気がした。最後の番人の一人がレジーだったことで、彼はいちるの希望をレジーにたくしていたからだ。道は果てしなく、彼は孤独だった。


 何の知識もなく、彼は一人で沼地を越えなければならない。沼地に行ったことなどもちろんなく、話に聞くのは沼には底がないことぐらい。沼の色一つ知らなかった。


(どんな樹が生えていて、どんな生物せいぶつ生息せいそくしているのか、沼地をえる道があること以外、いや、どんな道なんだろう?) 


 クフィーニスは明らかに厄介やっかいばらいされようとしていた。

「レノー、朝飯あさめしは食べたのか?」

 レジーが彼に声をかけた。もちろん食べていない。するとレジーは背負っていた大きな袋から、小さな袋を取り出すと、レノーに差し出した。もう一人の男はイファルナスの兄だったが、気色けしきばんで袋を取り上げようとした。

「イーファン、お前がこれ以上ちょっかいを出すなら、俺はお前を倒さなければならん」

 レジーは最後までレノーの味方だった。イーファンは弓矢をかまえ、袋をこちらに渡せ、とレジーに警告した。レジーは手斧を腰から引き抜く。

「レノーはこれから一人で生きて行かなけりゃならん。コイン一枚持たずにどうする? イーファン、お前さんがクフィーニスだったらどうするんだ?」

 二人は沈黙したまま、にらみ合った。互いに武器をかまえたままだ。

「レノー、持って行け。ここは俺が何とかする」


 初夏の、真昼の日差しが、樹木じゅもくの間から三人を照らしていた。レノーはためらいを見せた。

 クフィーニスに物を与えてはいけない。彼が袋を受け取って逃げれば、レジーが困った立場におちいるだろう。イーファンの矢はレジーに向けられていたが、ねらいをレノーに素早すばやく変えると、レジーに向かって、おのと袋を地面に落とせ、そうしないのならレノーをる、ともう一度警告した。

 クフィーニスの能力は、人体自体を動かすことはできなかった。

 三人とも青い顔をしていた。レジーがゆっくりと、小さな袋を大きな袋に入れ、まず手斧ておのを地面に落とした。

「袋もだ、早くしろ」


 レジーは命令に従うように見えた。突然イーファンに袋を投げつけて、地面の手斧ておのには目もくれず、弓矢の男に突進とっしんした。

 イーファンはよけようとしなかった。矢のねらいをレジーに戻した。だが袋の中に何が入っているのか、イーファンの肩に袋が当たると、彼は体勢たいせいくずしてしまった。矢の向きがそれたところへ、今度はレジーが体当たいあたりした。

 いきおいいで二人とも草むらに倒れ、イーファンは弓矢を手放てばなした。男たちの素手すでたたかいが始まった。


「レノー、袋を持って、早く行け——早く!」

 レノーは袋をわしづかみにすると、山道を走り下りて行った。

「レジー!」

 走りながら呼びかける。

「ありがとう!」

 しばらくして猟師の声がした。

「レノー!」

「生きて帰れよ! 生き延びろ!」

 レノーは走り続けた。

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