第5話 ペタリン

「おい、お前」

 無言。

「いまはお前を信じていて行くことにするけど」

 ペタペタ。

「とっととこの沼地のはずれまで俺を連れて行かないと」

 ペタペタ。

「その辺のにロープでつないで沼の中に突き落とすぞ!」

 そいつはちょっと振り返り、赤い目でレノーをにらみつけた。


 (やれやれ、でもこいつのおかげでちょっとほっとした。不気味な生き物だけれども)


 二人は、いや何と呼べばいいのか、根元ねもとを回ったり、小さながけからちょっと飛び降りたり、倒れた樹を乗り越えたりしてどんどん進んで行った。それまでのレノーとはくらべ物にならない速さで。やがて沼地の案内人——ひとじゃないことはたしかだけど——は両手をぱたつかせてレノーに何事かを伝えようとし始めた。

 どこからか人のいびきのような声が聞こえて来る。よく見るとこいつとうり二つの変な生き物が、樹と地面との間にはさまって、こちらを見てもがいている。何かの拍子ひょうしに、樹が倒れて来たか、初めから倒れていた樹の下にもぐり込んでけられなくなったのだろう。樹は途中で岩によって少しけていたが、けた部分にコケが生えているから、まず後者だろう。


 レノーはちょっと考えてみた。


 (取り合えずすぐに命にかかわることはなさそうだけれども、この連中はまだ他にもいるのではないだろうか? 助けてやれば何か見返りを期待できるかも知れないが、俺をわなにかけるつもりもあるかも知れない。この生き物、おなかをかせているんじゃないだろうな、つまり、俺というえさを手に入れるために、芝居しばいをしてたりして……。だがいまの俺にはこの二人が必要だ。助けよう)


 レノーはを少し持ち上げられないかためしてみた。重くて動かせない。ナイフで地面をろうとしたが、どれだけ時間がかかるだろう? 一つ思いついたことがあって、彼はナイフを袋に戻した。意識を樹のに集中して、その裂け目が広がる様子を思い描いた。この樹はスギの仲間だろう。スギが裂けて折れる様子なら、よく知っている。太めのみきが、裂け目を中心としてり返り、一気にはじけて折れ飛ぶのが見えた。

 あの時と同じだ。ほぼ同時に現実の幹が折れて岩の向こうにんだ。不思議な生き物たちは驚いたらしく、後先構あとさきかまわずどこかへ二人で逃げて行ってしまった。

 レノーはクフィーニスの能力を改めて体験して、樹は折れたけど生き物は傷つかなかった、と胸に刻みこんだ。


 (俺はたしかにクフィーニスだ。呪われた力——しかしその力であいつらを助けたんだ)


 ペタペタ逃げて行った連中の向かった方へレノーが行く頃には、夜明けが近づいていることを知らせるように鳥のさえずりが聞こえ、たいまつはもうつける必要がなかった。

 沼地——いや、もうそこは危険な沼地ではなかった。明らかに道が続いていて、周囲の樹もまばらになり、やがて前方に丘が見えてきた。レノーは助かったのだ。


 (やっと沼地を脱した、でも、あいつがいなかったならどうなっただろう?) 


 彼とあの連中とは、お互いにとって奇妙な恩人だったが、あんな風に連中が逃げて行ってしまったからには、もう二度と会うことは出来ないのかもしれない。


 (干し肉の一つでもあげればよかった)


 それでやっと、彼は自分が空腹で、ひどく眠いのに気がついた。後ろを振り返ると、密林みつりんはさほど恐ろしくも見えなかった。

 うらさびしい、だれかも見捨てられた沼地が、あの山と谷間とこちら側の国を遮断しゃだんしてきたのだ。おそらくここは「イカルカ」の国だろう。昔から谷間で語りがれてきた、黄泉よみの国。

 美しい女が死者の霊をなぐさめる、とも聞いている。


 (だがこれは、黄泉よみと呼ぶにはあまりにも美しすぎはしまいか?)


 丘を登るにつれ、前に広がる景色と、背後の沼地やいまでははるか遠くになってしまった山々とのちがいに彼はがく然とした。こちらの方が、自分の見知った谷間や山よりもはるかに美しいのだ。

 色とりどりの花が灌木かんぼくに咲き乱れ、何とも言えない香りが風に乗って流れてくる。ほんのわずか、彼を眠りに誘うように……。


 (ここではクフィーニスの力は使えないな)、彼は自分が久しぶりに微笑んでいるのに気がつかなかった。

 (果樹園か、でもなぜだれも見当たらないのだろう。いや俺は助かったんだ、今は木陰こかげで休んで、食べて寝て……)


 彼はまだ若く、子供なのだ。おまけに腹も空かせている。沼地の危機を脱したという思いは彼をとても楽にさせた。

 見たこともない黄金色こがねいろのおいしそうな果実かじつをもいでかじりつく。甘酸あまずっぱい果汁かじゅうは彼がこれまで食べたどんな果物くだものよりもおいしかった。大きな種を吐き出して、次の実をもぎ取った。それが「酔い」であることを、レノーは知らなかった。


 (十個でも食べられそうだ。生き返る思いがする。つい笑い声がれてしまう。さっきのへんちくりん。あの体つき。腕をぱたつかせて逃げて行った。俺も、もう少しで底なし沼に沈むところだった。この泥だらけの体。はっはっはっ。帰らない。もう谷間には帰らない。それともこの果実が「あかし」だったりして。大笑いだ。きっと俺は沼地の一番いい出口を通ってきたんだ。ペタペタ歩く奴らは最高だ。連中のことをこれからは「ペタリン」と呼ぼう。ペタリンに干し肉をあげよう。どこ行った、ペタリン。出てこいペタリン)


 持っていたかじりかけの実を一つ、沼地に向かって思い切り遠くへと放り投げた。


(これでもくらえ。そうだ、沼地の樹を残さずクフィーニスの力で倒してやればよかった。だれもいない。ペタリンも人もいない)


「おーい」

 彼は叫んだ。

「俺はここにいるぞぉっ」

 目が回る。よろめきながら灌木かんぼくの間をって歩き出した。足が思う通りに動かない。恐怖はなく、彼はひどく寂しかった。


 (町はどこだろう?)


 突然が空からえて、彼はころんでしまった。樹が動いている。行かないでくれ、と彼は懇願こんがんした。


 (地面が冷たいな、水……)


 レノーはもう目を開いていられなかった。朝日が丘を照らし出し、いくつかの影が彼を取り巻いた時には、彼はもうすっかり眠り込んでいた。

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