第57話 再会

 レノーの脇に顔を寄せて、フェミは甘い蜜の時間を思い返していた。

彼といっしょでよかったと思った。


 (あたしは彼のそばにいたい、もう離れたくない)


 レノーを彼の故郷に返すなどと言うことは、もはや考えられなかった。


 (都で生きて行こう。この腕なら彼はもうクフィーニスであったことをだれにも見破られないだろう)


 能力はもう、なくなってしまったのだ。


 レノーはもう震えもおさまり、ただとても不安定な気持ちに負けまいとしていた。どんなにフェミの温かな身体や心に触れたと思っても、ミルの最期、フィルやレルムのような者たちが実際にいるという怖れから逃げきることが出来なかった。また考えをそらして、早くアルルたちと合流して都に戻ろうと、そればかりで、いまは甘い物語に酔っていたかった。


「フェミ。もう『あかし』なんていらない」

「うん。もう、クフィーニスじゃ、ないんだから」

「都に行こう」

「アルルとクルルに会いたい」

「今夜はもう眠ろう。明日には分岐点まで行き着くかな?」

「たぶんだいじょうぶ。クルルたちも追いつくと思う」

「俺たちはもう、安全なのかな?」

「クルルたちが教えてくれる……そうだよね?」

「もし……」

「いまは『もし』はやめて。あなたが人を傷つけたんじゃ、ない」

 フェミは気持ちを引き上げるように、にっこり微笑んだ。レノーもぎこちなく、だが微笑み返した。

「安心、だよ。あたしたちはもう、安心なはずよ」

 安心、か……。物事のとらえ方次第で、俺は自由にも、安心にも、なれるのか……。

「もう眠りましょう」

「おやすみなさい、フェミ」

「おやすみ、レノー」

 しんとした部屋の中で、二人は自分たちが安全と自由を手に入れたと思い込もうとしていた。


 翌朝もよく晴れていた。青い空の下で、少年と少女はどこかうきうきとした気分で駅馬車に乗り込んだ。朝だというのに耐えがたいほどの暑さだった。しかし未来が開けた子供たちにとっては問題ではなかった。二人はそれぞれの河下りや海の色、アグロウの干物やペタリンたちがいかに泳ぎ達者であるかといった話題を次々と話し合った。


「都に戻るまで楽しい旅だね」

「みんなで遊びながら戻ろうか」

「もう心配はいらないね」

「アルルとクルルに早く会いたいな」


 レノーはちょっとはにかみがちな、優しい少年に戻っていた。フェミはそんな彼が大好きだった。今度の駅馬車に乗っているのは、彼ら二人だけだった。二人は手を握り合って、何度も口づけをした。

 しかし内心ではフェミもレノーも、レノーが能力を失くしたことを不審に思っていた。


 (でもきっとだいじょうぶ、クルルとアルルが心配はいらないと教えてくれる)


 そう考えながらも沸き立つ雲のように、不安が二人の心を占めようとする瞬間が訪れる。


 二人はその話題を避けていた。レノーだけではなくフェミまでが、燦々さんさんと輝く外界がいかいにめまいを覚えた。彼も彼女も、自分たちの未来に畏怖いふを覚えないわけにはいかなかった。それがあるから、おかしな冗談やみだらにも思える抱擁ほうように逃げ込むことが出来るのだった。


 二人はもう子供ではなかったし、大人でもなかった。


 レノーはあらゆるうつくしいものがとてももろく出来ている気がした。葉叢はむらをいただいた涼しげなこずえも、フェミが微笑む時のようなランのような温かさも、一瞬ののちには崩れ落ちて消えてしまうのではないかと疑われた。同時に自分たちが世界に祝福されていることを信じたかった。

 彼が見ているのは、やはり回りつづける万華鏡まんげきょうだった。たしかなものは、彼が何かを信じないかぎり永遠にあらわれないはずだった。彼は自分に問いかける。


 (俺は彼女を信じているのだろうか?)


 そんな問いかけをすること自体が彼にはおどろきであり、彼は自己の人格すら信じていいものかどうか、わからなかった。

 すべてが彼の前で両手を広げて待っている、しかしレノーは自分の手をどのように伸ばしたらよいのか、途方に暮れていた。

「どうしたの?」

 フェミが問いかける。

「何でもないよ。俺はしあわせだなって……」

「あたしもだよ。レノーについて来て、よかった」


(あたしは……あたしは、レノーが壊れてしまうのが恐ろしい)、と彼女は自分の気持ちをたしかめた。


 (彼みたいにつらい目にずっとっていたら、あたしだったらとっくに壊れているに違いない。いまのレノーを見ていると、心の内側がとても優しいものに満たされる。あたしはこの人の力になりたい。あたしだって……おかしいのだから……)


 フェミもレノーも、互いがおかしいから、病んでいるから、互いがだれかに見放されたり、だれにも言えない悩みを抱えていたりするから相手を愛しているのだった。

 若い恋人たちだったけれども、二人のきずなは強かった。顔がかわいいとか、目が好きとかいったことは二の次だった。もっとも、レノーの顔は見飽きないと気づいてフェミはうれしかったし、レノーもやせて来たフェミをうつくしいと思うことは前からよくあった。


 軽い食事と何度かの休憩を取って、二人はペタリンたちと待ち合わせた場所に到着した。

「あ~暑い。河で水浴びしたい気分だ」

「あたしはおなかぺこぺこ。冷たい水もがぶがぶ飲みたい」


 アルルとクルルはたくさんの書き付けを用意して待っていた。トーンドーンでの出来事を知ったレノーも、自分がもうクフィーニスではないことを説明した。四人ともあの町で起きたことの不可思議さに打たれた。


「その件について答えを出すのは保留にしておく」


 話し合おう、と言って、レノーたちは再会と無事を祝って抱きしめ合った。あらためて、トーンドーンやビックリフで起きたことについて話し合った。レノーの身に何が起きたのかを説明できる者はいない。


「大事なのは、レノーはもうクフィーニスじゃないってことだよ」


 フェミの言葉に皆うなずいた。クルルはあの老婆に聞いた話をほとんど忘れてしまっていた。

『あのおばあちゃんの話、あのおばあちゃんの話……あたし、いっぱい聞いたんだけど』

 代わってアルルが、彼が覚えている一部のことだけをフェミとレノーに聞かせた。クフィーニスとドブシャリがイカルカから来たということだけだ。


「考えさせられる話だけれども、いまの俺にはもう関係ないのかも知れない。アルル、クルル、しらべてくれて、ありがとう」


 レノーが、そして皆がこれから先のことを決めたがっていた。レノーは故郷に帰るべきではないというのが皆の意見だった。彼は素直に従った。

「みんなの言うことを聞くよ。俺は、あの山と谷間には、戻らない」

「じゃあ、やっぱり」

「都だ」

「もう一度、都に行こう。都で暮らそう」


 ギャバーッ! クルルの喜びようは大変なものだった。彼女が歌姫のことを考えているのは皆わかっていた。レノーも、いまならあのレリッシュに会うのもいいかも知れないと、自分を省みた。彼は歌姫の住まいがどこにあるのか、まだ記憶していた。

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