第56話 老婆の話

 一人暮らしの老婆の家から、クルルはおなかいっぱいになって飛び出て来た。元気もいっぱいだ。カフェに行けばアルルに会える。


 レノーはやはり人をあやめてなんかいなかった。フィルは医者ではなかった。著述業、というのが彼の肩書だったようだ。レルムはフィルのおいだということだったが、近所の人たちの中には得体えたいが知れないと気味悪がっている者もいたらしい。


 クルルは自分が筆談が出来ることを老婆に教えるという賭けに出た。それは大成功だった。


 (久しぶりにアルルに会える!)


 レノーを追う前に、金色の河口を二人で眺めるのだ、それはとてもすてきな体験に違いない。カフェには入らないし、営業していないはずだ。


 ぺたぺたぺたぺた小気味いい足音を立ててクルルはチギレ展望台へと走った。昨日と同じくらいの時間だ。


 (愛するアルルはもう来ているだろうか?)


 真夏の熱気が、町中をおおっている。


「あたちはアルルが好き! レノーもフェミも好き!」


 結局、レノーとクルルは一つのことをやり終えたのだ。


 (ここはチギレではない。アルルにビックリフの話を聞こう。この町で出会った不思議な老婆の話をしてあげる。レノーにも早く知らせてあげたいが、しばらく待っていてもらう)


「アルルがあたちの恋人ですもん」


 ぺたぺた走って展望台にたどり着いた。営業していないカフェの隅っこの席にアルルが腰かけていた。お互いの姿を認め合うと、きゅるきゅる鳴きながら近寄って抱きしめ合った。


「アルル、アルル、あたちね、あたちね」

「クルルが無事だった。よかった」

 クルルはレノーの置き手紙をアルルに見せた。

「アルル、このカフェはおかしいの。出ましょう。何も変なもの、見えたりしてないよね?」

 ギャバ、とアルルはうなずいて言った。


「ははは。やっとクルルが普通の話し方に戻った」


 二人はカフェを出た。クルルはレノーが捕らえられた館を探してこの町を駆け巡ったこと、レノーが言った通りだということ、家にクルルを招いてくれた老婆の話をした。


 そうですわねえ、あたしの一族は祖父の代からこのトーンドーンに暮らしておりますわ。トーンドーン、チギレと呼ぶ方もいらっしゃいますけども。あたしが小さい頃、祖父はあたしたちが皆アグロウの血を引いていると申しておりました。アグロウ・クフィーニスですわねえ。曽祖父そうそふは旅の好きな人だったと聞いております。三つの国を旅して回ったと。  

 祖父もつれられて、旅から旅の連続でしたらしいですわ。もっとも、曽祖父も祖父も赤い手はしておりませんでした。アグロウの血は引いておりますけれども、クフィーニスではなかったということですわね。あたしもクフィーニスではありません。あなた、本をお読みになりますか? 読まない、それは残念です。「クフィーニスの歴史」という本を読んでもよろしいんですけど、あたしが聞いたところでは、アグロウはそもそもチギレの人間ではなかったそうでございます。

「すべてはイカルカを見つけることにかかっている」

 そう祖父は申しておりました。クフィーニスの出はイカルカであると、そういうことでございますわねえ。あんなおとぎ話に出て来る国が、とお思いでしょうけれども、あなた、信じてみるのも一興でございますわよ。祖父はあたしの親やあたしをここに残して、よく旅に出ていたもんです。見たこともない風変わりなみやげ物があたしは好きでねえ。あたしも旅につれて行ってもらえばよかったと、いまでも後悔しているんです。

 イカルカはねえ、男女のクフィーニスが作った国であると、祖父は申しておりました。山を切り、森を生んだと、そのどちらの力も持っていたと、そういうことですわねえ。アグロウがチギレを海に沈めることくらい、何でもなかったわけですよ。数はすくない。そりゃ、数はすくないですわ。クフィーニス同士でけんかでもしたらたいへんですから。イカルカは緑の森の国でしたそうでございます。うつくしいですわねえ。クフィーニスが育てた樹の緑は宝石になると、そうも聞いております。

 こんなことをクルルさんにお聞かせするのも、運命でございますかねえ。あなた方ドブシャリさんも、実はイカルカから来た一族であると、祖父が曽祖父にそう聞いたと申しておりました。あたしたちはいわば貴族の末裔まつえいってところでしょうかねえ。でもね、あなた、貴族にもはみ出し者はいるもんです。アグロウ・クフィーニスはイカルカを追放された者の子孫なんでございますわ。力のおとろえたクフィーニスの子孫なんですわよ。追放された人たちは、そりゃ、さびしかったでしょうねえ。でもアグロウは強い力を持っていた。皆さんご存じの通りですわ。しいたげられた者の中から、強い力の持ち主がうまれるんでしょうかねえ。クフィーニスはいまでもしいたげられている、ドブシャリさんも同じですわね。

 あたしの一族もむかしは辺境の町でこっそり暮らしていたそうでございますわ。いえ場所は申せません。申し上げることが出来ないんでございます。でもね、祖父に言わせると、クフィーニスの子孫でない人間などいないんだそうです。だれもがクフィーニスの子孫だと、そういうことでございますわ。イカルカでは人もドブシャリも、皆仲良く暮らしていたそうでございます。あたしたちはイカルカの、はみ出し者で出来た国に暮らしているんでございます。はみ出し者がクフィーニスをしいたげる、悲しい話ですわねえ。


「そこから先は、あまり憶えていないの」

 クルルがアルルに言った。

「興味深い話だ。とにかく、レノーは人を傷つけてなんかいないし、無事なんだね? あの分岐点で、僕たちを待っているんだね?」

「そうだと思う。レノーは無事。アルル、いっしょに金色の河口を見てからにして。すごくきれいなの」

 二人のドブシャリは落陽に向き直った。クルルは昨日と同じだと感じた。アルルが低い声で、詩を口ずさんだ。


 遠い鐘が鳴り 疲れた夕日が沈む

 海は河までその色に染まる

 乗り手のいない舟が浮かんでいる

 川沿いにカフェが 水面にはちらつく光 光 光

 あなたはコーヒーをすすりサラダを食べて木の実をかじる

 あいまいな相づちを打つあなたには声も聞こえない

 光と風 まわりは年寄りばかりだ

 あなたの海もやがて変わってしまう


 早い星が輝き 一日が終わる

 海からの夕風は優しく

 弦の響きに踊るのを見ている

「私 夜会に出かけるわ」

 赤い舞踏会が気に召さなかった

 あなたが去るのをじっと見つめる

 光を背に あなたにはわからない

 カフェに残されたのは金色の旅人たち


「クルル……僕たちは都に戻るだろう」

「都に?」

「そこで僕の身に何かが起こる。僕は歌っているうちにそれを見た、でも歌い終わると夢のように消えてしまった。都は僕には合わないのかも知れない」

「アルル……どういうこと? なんだかアルルじゃないみたい」

「自分でもわからない」

「あたしはアルルといっしょ。ずっと、いっしょ」

 二人のドブシャリは、金色の光に包まれていた。

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