第42話 レリッシュ

 眠っている間に、彼は身体がとても楽になっているのを発見した。自分はいま、薄いきぬの寝巻きを着ているらしい。軽い夏掛なつがけをかぶっている。下着はつけていない。かすかに甘い花の香りがして、それをかいでいるだけでいやされる。まだ目は閉じている。足も腕もよけいな力がすっかり抜けて、彼は自分がまだクフィーニスになる前に戻ったような気がした。そういえば、腕の包帯もかれている。


 (俺の赤い腕を、だれかが見たんだ)


 反射的はんしゃてきに目を開けて、彼は上体を起こした。見たこともない部屋の中。


 開かれた窓から夏のそよ風が流れ込んだり、引いて行ったりしている。しかし気温は高く、部屋の中も外もかなり暑い。ベッドから下りて窓際まどぎわに立つ。

ここは二階で、窓の下を老人が童謡どうようを歌いながらゆっくり歩き去った。

あの殺風景さっぷうけい屋敷町やしきまちにいるのではないらしい。まぶしい太陽にねっされた窓の外から目を移して、彼は自分の赤い手と腕を見つめた。


 (だれかが俺をここに運び、俺がクフィーニスであることを偶然知ってしまった。それにしてはここには不穏ふおんさのかけらもない。どういうことだろう?)


 白いちょうが舞い込んで来て、卓上の花瓶に生けられた花のまわりを飛び、開いた扉の奥へと消えた。彼はちょうを追うようにして廊下に出た。


 いくつかの扉が同じように開かれていて、明るい光が長い廊下を照らしている。ちょうはもうどこかに見えなくなっていた。彼はいくつかの明るい部屋をのぞいてみた、しかしだれもいない。

 大小さまざまな絵が壁にかけられた部屋。さっき彼がいたのと同じような、ベッドの置かれた部屋。廊下の角を右に曲がると、まだ長い廊下はつづいている。途中、大きなおおきな吹き抜けからながめると、はなややかなランプがいくつも置かれたホールもあった。

 廊下の突き当りには一つ、閉められた扉がある。階段を見つけると、彼は迷いながらも階下へと下りて行った。四十歳ほどに見える女が一人、ホールの片側の部屋で掃除そうじをしていた。玄関の扉は堅く閉じられていて、かんぬきまでされている。彼は寝巻きのままで立っていた、寝巻きは長そでだった。


 ロロン、と音が鳴ったので、彼は女のいる方へ歩いて行った。一台のピアノをかわいた布でいていた女がこちらを見た。


「何か言うことはないのかねえ? まったく、あの人も物好ものずきだこと」


 彼がここはどこかとたずねると、女はそれには答えず、昨夜のことをおぼえていないのかと彼に問い返した。覚えていない、とだけ彼は答えて、彼の服はどうしたのかとまた女にき返した。

「洗って干してありますよ、ずいぶん汚れていたから」

 しかし女は苦笑いをして、こうも言った。

「あなた、どこのだれなの? ほんとうに、クフィーニス? あの人を厄介やっかいごとに巻き込むのだけは、ごめんですよ」

 めんどうをかけたのに、親切にしてくれてありがとう、そう礼を言って、彼はあの人とはだれのことかと三度質問した。

「そんなこと言えないわ。服がかわいたら、着替えて自分の家にお帰りなさい」

 帰り道がわからない、と彼は女に告げた。

「まあ、まあ。自分がだれかもわからないの?」

 そういうことではない、自分のことはわかっていると彼は返事した。

「まさか、自分の家がないの? それとも旅の人なの?」

 旅をしていると彼は答えた。女はさらに、彼の宿はどこかとか、としはいくつなのかとか、名前は何というのかとか彼に問うた。


「マーモ。あの子もそこにいるの?」

 小声で話しているのに、よく通った。衣擦きぬずれの音が降りて来る。マーモと呼ばれた、彼と話していた女は彼に、礼儀正しくしなさいと注意した。


 彼の前にあらわれたのは、一度見たら忘れられないほど風変わりな顔と髪をした女性だった。

「まあ、寝巻きが似合にあうわ、クフィーニスちゃん」

「助けてくれて、ありがとう……俺はレノーといいます」

「いいのよ、礼なんて。レノー、私はレリッシュ」

 レノーと礼とレリッシュ……。レリッシュはマーモに軽い食事を用意してと命じた。

「もちろんこの子の分もね」

 マーモはすぐにホールの反対側へと消えた。


「レノー、こっちこっち」

 レリッシュはピアノの方へ彼をさそった。彼に、楽器がけるかとたずねた。彼は横笛を取り出そうとして、寝巻きなのに気づいた。

「ああ、あの笛ね? ピアノはけないの?」

 さわったこともありません、と彼はほんとうのところを答えた。

「じゃあ、あたしがだれかも知らないんだ?」

「ぜんぜん知りません」

 レリッシュはうれしそうに微笑んだ。

「あたしはねぇ……そうだなぁ……娼婦しょうふかな」

「………」

「よその国の皇女こうじょかも」

「………」

「実のところ、貴族の末裔まつえいかな」

「そうなんですか?」

 あっあっあっ、と彼女は奇妙な声色こわいろで笑った。レノーは顔を赤くした。すごくなまめかしい声に聞こえた。

「あたしはレリッシュ。都の歌姫だよ」

 この人が歌姫? レノーはもっと、上品そうな女性を想像していた。

「レリッシュ。あなたが歌姫なんですか?」

「う~ん。そうとも言える。それで、レノー。あなた、童貞どうていでしょ」

 レノーはまた顔を赤くした。としかれたので、もう十六だと言った。

「十六で童貞どうてい。いいのよ、たとえ三十で童貞どうていだって。赤くなるのは腕だけじゃないのね」

 突然レリッシュは歌い始めた。アグロウの詩だ。


 チギレのアグロウ 気まぐれのあほう

 民を守り 町を守った

 ぜんぶ自分で殺すため!

 ぜんぶ自分で壊すため!


 フェミは教えてくれていなかったけれども、風変わりな旋律せんりつうただった。


 海をのぞんだみさきの町に

 チギレの町にうまれたアグロウ

 気のいい粉屋こなやの息子だよ

 生きた時代が悪かった

 国は他国と戦争中


「レノーも一緒に歌いなさいよ」

 レリッシュはそう言うと、歌いながらピアノを弾き始めた。

「知らないんです」

 レノーはそう言った。しかしレリッシュは聞いていなかった。


 イガイガ兵はやって来た

 ポンポコ国中襲われた

 チギレの町も囲まれた

 ポンポコ怒った男が一人


「ポンポコって何? レノー、歌わないの?」

「知らないんです」

 ピアノの音がはじけて止んだ。あっあっあっ、とレリッシュはまた笑っている。

「クフィーニスなのに、知らないの?」

「知りません」

「何だ、つまらない。でも、おかしい」

 マーモがやって来て、食事の用意が出来たと告げた。


「レノー、いっしょにポンポコ食べよう。『お客様、こちらですわよ』」


 レノーは自分が都の奇妙な裏側の世界に入り込んでしまったことを意識していた。

 都で最初に出来た知り合いが、歌劇場で喝采かっさいを浴びている歌姫だなんて。クルルが知ったら、うらやましがるにちがいない。

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