第29話 心の闇 

 レノーがまたうなされ始めた。沼、うあ、と繰り返している。アルルはレノーのうわごとを一つ一つ記録していた。フェミはヨサの指示通りに、買ってきた薬を混ぜ合わせているところだった。アルルにレノーのうわごとを記録するよう命じたのはヨサである。クルルには食事のしたくを頼んでいた。フェミはレノーがクフィーニスであることを、すでにヨサに打ち明けていた。


「レノーの心のやみはらうこと」

 ヨサは言った。

「いまのレノーには、レノーを信じていることを彼が信じられる相手が必要なの。フェミ、あなたがそれをしなければならないのよ」


 フェミは育ての親を、あらためて尊敬のまなざしで見つめた。

「あたしたちがレノーを傷つけないことを、レノーが信じられますように」


 (それが出来るのはあたししかいないんだ)


 フェミは身が引き締まる思いがした。心のやみはらう、とヨサが言う薬を、フェミは少しずつレノーに飲ませた。その間ずっとおだやかな声でレノーに話しかけることも忘れなかった。

「レノー、あたしだよ、あなたの味方のフェミだよ、あたしはレノーをずっと前から知っていて、レノーのことを信じているんだよ。あたしは……レノーが好きだよ。レノーの目も鼻も口も好きなんだよ。レノーの心の痛みをあたしが消してあげる……」

 フェミは指先で、レノーの眉や鼻や唇をやさしくそっと撫でた。

「レノー、つらかったね、つらいんだね、でもあたしがいるよ。あたしはここにいるよ」

 フェミだってつらかった。でも彼女は、自分がつらいことをレノーにさとらせまいとした。


 (あたしの中にだってやみはある。でもいまは、この人を助けるんだ。ひどい目にって、いまのレノーは自分を見失っているだけ)


 レノーといっしょに、ヨサやペタリンたちといっしょに、フェミはたたかいつづけることを心にちかった。


 レノーの悪夢もつづいていた。彼は拷問ごうもんにかけられていた。おぼろげな光明こうみょうとらえながらも彼は身体からだやいばで切り刻まれていると感じていた。これは夢に過ぎないという言葉が出て来なかった。夢の巧妙こうみょうなからくりにだまされて、彼は現実に拷問ごうもんにかけられているのと同じように感じていた。ガッ、ガッ。


「ガッ」


 自分の叫び声にまみれてレノーは目覚めた。


「レノー……嫌な夢を見たんだね」

 荒い息づかいでフェミの顔を見上げ、彼は力いっぱい言葉をしぼり出そうとした。

「フェミ、夢、オレ」

「レノー、夢だったんだよ。もう夢から覚めたんだよ」

「終わった……?」

「ううん、レノー。夢を見ることはまたあるよ。でもいまは、あたしもアルルもクルルもいるよ。あたしたちはレノーの味方だよ。ヨサ母さんが薬を買ってきてくれたの。クルルもいっしょにね。レノー、隠していたことも、忘れていたことも、あたしたちには全部話していいんだよ」


 (みんなが俺を見捨てたのに? どこへ行っても厄介者やっかいものなのに?)


「レノー、起きなさい」

 ヨサだった。

「起きて、着替えて、顔を洗って。食事の時間だから。クルルが料理してくれたのよ」

 レノーの目の前に、アルルの書き付けも差し出された。

『レノー、大事な話もまだだし、僕たちはみやこへも行かなければならないんだ。がんばって、薬はきっとくよ』

 無言むごんでレノーは身体からだを起こした。いまなら話が出来るような気がする。しかし分厚い布にくるまれているように、彼と皆はまだ扉をへだてた場所にいた。レノーはのろのろ動いて水場みずばへ歩く。


 (苦しいんだ。つらいんだ)


 レノーは自分のことばかりで他人の痛みを察する余裕はまだなかった。クフィーニスの話、そしてみやこ……。心の奥底からむらむらと広がる意識を彼は必死になって食い止めた。   

 冷たい水で顔を洗い、口をすすいだ。部屋に戻るとフェミが着替えを渡してくれた。すっかり着替えて、しかしもうだめだと思って、突然彼はつぶやいた。


「行かない」


アルルが不思議そうにしている。


「行かない。都になんか行かない」


 アルルがあわててだれかを呼びに行った。ぺたぺた足音がする。皆で戻って来た。


「ずっとここにいる。ここがだめなら、どこか静かな所に行く。カヌウみたいに暮らす」

「カヌウみたいになるの? カヌウがどうなったかわかるの?」

 フェミの言葉にレノーは絶句ぜっくした。クルルが彼の手をにぎりながら書いたものを見せた。

『レノー、話が出来るようになったのね。あたくし、うれしくってよ』

 ヨサも気がついていた。

「レノー、だいじょうぶよ。あなたは話も出来るし、私たちはあなたを見捨てたりしないわ」

 とりあえず食事にしましょう、クルルの料理がめちゃうわ、とヨサは言った。


 皆がこれはおいしいと言って食べている料理を、レノーはもくもくと何の感想もべずに食べ、何の味もしないような気がしていた。食べるのにはずいぶん時間がかかった。

『レノー、あたくしの手料理のお味はいかが?』

 おいしいよ、と彼は答えた。しかし内心ではそうは感じていなかった。皆が食べ終えて片づけを始めてもまだ彼は食べつづけている。


 (どうしてこんなに時間がかかるんだろう?)


 ヨサが戻って来て彼のそばに座った。フェミも戻って来た。

「レノー、気分はどう? 母さんが、話があるんだって」


 彼はまじまじとヨサの顔を見つめた。長い黒髪を後ろでたばね、明るい表情を浮かべている。フェミには似ていない。好奇心の強そうな大きな瞳、おおらかそうなを描いた眉、すこし小さいけれど形のいい鼻、むきたてのゆで卵のような肌、若々しい気がした。

「ヨサさん。俺、話出来ます」

「それはよかったわ、皆心配していたのよ。きっと薬がいて来たんだ。たくさん買ってきたから、大事に使ってね」

「……知りたいんです、クフィーニスのこととか、アグロウのことなんか」

「私だって、クフィーニスやアグロウのことなんかあまりよくは知らないのよ。昔だれかにアグロウの詩を聞かせてもらったことはある、でももうどんな内容だったか、フェミに聞いてチギレの名前を思い出したくらいで、ほとんどおぼえていないの。クフィーニスについては、実在するなんて思っていなかった。この村では、だれもそんな話をしていないの」

「そうですか、知らないんですね」

「レノー、あなたは旅をつづけなさい。『あかし』を探しなさい。いまの状態でそうするのはとてもつらいかも知れない。でもみんなで決めた通りにみやこへ行って、文献ぶんけんをしらべて、自分がだれなのか、見つけに行くの。みやこには一人私の知り合いがいるから、彼に会って、困ったことが起きたら相談しなさい。彼に手渡す手紙を書くから。アルルとクルルもいるし」

「あたしも行くよ」

 フェミがうれしそうに言った。

「だから」

 もう都に行かないなんて言わないで、とヨサは彼に頼んだ。


「故郷に帰れなんて言わないけれども、夏はすぐに終わってしまう。レノーが自分のことから逃げてしまうのはちがうと思うんだ。このままここにいてもあなたの病気が良くなるとは思えない。レノー、あなたは旅をつづけなさい」

 そしてヨサは娘の方に顔を向けて言った。

「フェミにも話しておくことがあります」

 レノーは恐ろしかった。これ以上知らない土地に行くことが怖いのだった。あこがれていたみやこでさえ、そこに彼が行くだけで何かいやなことが起きるような気がしてならなかった。

 俺は不安なんだ、と彼はくちびるをかみしめた。

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