第28話 発症

 まぶし過ぎる日差しがヨサの家にも花にも人にも降りそそぎ、花壇の手入れをしていたフェミはひたいに手をかざしてその人影を見つめた。


 (まちがいない、ヨサだ。クルルを従えている)


 フェミの古着を着たクルルはかわいらしかった。北の町へ出て薬屋を訪ねたはずだ。大きな包みを手に下げている。


 (求めていたものが手に入ったのだろうか?)


 フェミはレノーのそばにいたかった。アルルとクルルが町へ行くと言った。でもそれはいけないとヨサが止めて、ヨサは一人で薬を求めに行こうとした。


「本当にそれが本物で、があるかどうか、私にしかわからない薬なの」

町へは片道一日半いちにちはんかかる。


『あたくしをお連れになった方がよろしくてよ。頭も腕も強くってよ。夜道も見えるし』

 クルルがおともをすると言って聞かなかった。アルルはレノーにお返しをすると言って、彼の看病かんびょうをしている。花壇の世話はアルルには出来ない。


 初夏にしては日差しが強すぎるので、フェミは少しずつ水をいていた。レノーの病は村の医者にはせられなかった。赤い手のためだ。


「レノーのやまいはミルダムの医者には治せない。せてもせなくても同じだよ」

 ヨサは言い切った。

「どうしたらいいのか、私にはわかっている」


 ヨサがクルルを連れて家を出てからもう三日だ。フェミが連れて来た、ドブシャリを使う病気の大道芸人のうわさがしずかに広がっていた。時々フェミとアルルが見まわって、勝手に家に入ろうとしている村人を追い払った。ウダツでの出来事も村に伝わっていた。ヨサも、フェミやレノーも、興味本位の話のタネに過ぎなかった。


 レノーは明らかにどうかしてしまっている。横になっているが、目を覚ましている間はほとんど何も話そうとしない。フェミが話しかけても、アルルが書き付けを見せても無反応むはんのうだ。眠ってしまうと、今度はひどくうなされて、うわごとをつぶやく。どんな夢を見ているのだろう? り起こして様子を見ると、レノーは何かにおびえた目でフェミの顔、アルルの顔をじっと見つめるだけだ。食事もほんの少ししからない。


『魂が抜かれたみたいだ』

 アルルがフェミに書いたものを見せた。

『ここにいるのはレノーのがらだよ』


 フェミも、レノーの目の前にいるのは彼女だと、彼が気づいているのかどうか心もとなかった。


      ☆★☆


 レノーは起きていた。しかしすぐそばにいるアルルにも、彼が起きているとは感じられなかった。彼はいまあの山と谷間にいて、家族といっしょだった。まだ冬の、寒い夜だった。家の中はおだやかで暖かな光に照らされていた。野菜だけのスープのいい匂いもしている。しかしその場の空気は張り詰めていた。彼の父親が言った。

「もう一度言う、レノー、お前はみんなに迷惑をかけている」

 彼の目の前で光がはじけ、彼は白いやみを見た。彼の母親も彼の兄も、口をつぐんでしまって何も言うべき言葉を持たなかった。

 また別の時、別の場所だ。彼の父親はまた彼に死刑判決を読み上げた。俺がもしクフィーニスだったなら、レノー、お前の身体を真っ二つに割ってやる。

 その時彼は父親と二人きりだった。彼は言葉を探す、しかしどんな言葉も間違っているような気がして何も言えない。空がひどく青くて彼の胸が痛む。


 朝起きるたびに、食事のたびに、だれかと顔を合わせるたびに彼は言葉を失って行った。

 すでに彼は死を前にした老人だった。毎日彼は山野をさ迷い歩いた。だれかに話しかけられても彼には返事一つ満足にできなかった。形骸けいがいだけのあいさつの言葉。たとえば晴れた空に対するどんなめ言葉もむなしいとしか感じられない。それで大事な人たちとの会話も成り立たなくなり、友達を失い、世界を失った。彼にはもう家などはなかった。傷だらけの身体からだで、彼は野草をみ、川の水を飲み、獣の肉にらいつきたかった。だがそれは許されなかった。村の特別措置とくべつそちによって、レノーはずっと監視されていたからだ。祝祭の日まで、彼はずっと監視されていた。クフィーニスの能力を発現させる危険に備えて、村長たちは場合によってはレノーの命を奪ってもよいことにしていた。


 レノーは毎日何かをナイフで切りつけ、切りつけつづけた。彼はただ世界に対して切り返しをしているつもりだった。切り合いをつづければつづけるほど、彼は言葉を失って行った。その一方で、残された言葉はある文字列もじれつをたどるようになった。


「やられたらやり返せ」


 彼はしかしクフィーニスの力を用いることを周到しゅうとうけていた。それを試みることさえ、彼にとっては禁忌きんきだった。死を宣告された十六歳の少年、家族にすら切り捨てられた少年に何が出来ただろう? 彼はやけを起こしてクフィーニスの能力を使うこともしなかったが、「あかし」について情報を集めることも、沼地のことも、クフィーニスのことさえも何も知らないままだった。


 彼にとって大事なのは家族だったが、父親への信頼を、父親からの信頼を失ってしまってからは一人ぼっちで、孤独な自分だけの世界の中で生きて行かなければならなかった。

 母も兄も父の側の人間だった。残酷ざんこくだ、という言葉すら出て来なかった。


 彼は自分だけの世界の中でひたすらあがいた。あがいていると感じても、実際に彼がしていることは、ほとんど何もないにひとしかった。食べることもだんだんめんどうになって来るのだった。苦労してらえたけものの肉を前に、彼は料理する気もなくして長い間じっと座っていた。

 ときおり自分でも思いもよらぬ激情げきじょうられることがあった。父親の死を思い描くこともあったし、そうなればいいと願ったことすらある。でも、クフィーニスの像を思い描いたりはしなかった。


 どのみち、切り合いをつづける限り彼に救いはなかった。


 ある春の日の午後、山の中で彼はレジーに話しかけられた。レジーは彼をとても心配していた。しかしレノーには、いま自分のまわりで何が起きているのか説明することも出来なかった。レジーは彼がおきてやクフィーニスのことも何も知らずにいることに驚いていた。

「いつでもいいから、機会があったら逃げちまえ」

 逃亡もすすめた。


      ☆★☆


 しかし彼はそんなこともめんどうでしかたがなかった。返事も満足にできない彼を見たレジーは、彼の肩をたたいて優しい言葉をかけてくれた。そしてレジーは友人である彼の父親に会って抗議するつもりだと憤慨ふんがいしていた。レノーは何の感慨かんがいも抱かなかった。いつもだれかといっしょだったのに。最後には彼は山野を駆け回り、監視者をまいて、秘密のかくで夜を過ごした。またふりかえってみると、時々突然気分が変わり、過酷かこくな運命にこうしたいと思い立つこともあった。そんな時は自分の中から別の自分が現れ出たかに思えた。でも気分の浮き沈みは激しく、興奮しているうちにちょっとしたことがきっかけでまたすべてがめんどうな自分に戻ってしまうのだった。


 処刑を待つ気持ち、きびしい現実から逃げ隠れたいという欲求、さまざまの思いが入り乱れて、レノーは回りつづける万華鏡まんげきょうを見ている気になった。


「たしかなものなど何もないんだ」


 彼はもはや定まったものなど何も見ていなかった。彼は自由の身になって、何かしなければならなかった。だがどこへも行き場がなかった、ただ一つ、死んでしまうにちがいない、沼地への道を除いては。

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