名曲喫茶

 ある夏の日。

 渋谷での所用がありそれを済ませた後、暑気にあたったのか気分が悪くなった。

 胸の辺りがぐるぐるとして、血の気が引くような感覚。

 これはまずい、このまま電車で長いこと揺られて帰宅できる自信がない。そう思った。

 どこか休めるところを、と思案したとき。ふと、前から気になっていた喫茶店が頭に浮かんだ。


 道玄坂方面へゆっくりと足を進め、細道を右へ。人気が少なく、雰囲気もガラリと変わり些か心細くなる。

 それでもいくらか先へ進むと看板と共にクラシカルな喫茶店が現れる。

 ドアに手をかけると、店内撮影禁止の注意書がかかっていた。


 ギィ、とドアが軋んだ音を立てる。


 足を踏み入れると、外の日差しから切り離されたような、スゥっとした程よい涼しさ。店内は少し薄暗く、話し声は何も聞こえない。

 その代わりに左手にある音響設備から響く、クラシック音楽。

 そう、ここは昔からある老舗の名曲喫茶だった。

 家庭用コンポ等とは全然違う音圧でクラシック音楽を聴くことができる喫茶店。

 前々から一度訪れたいと思っていたけれど中々勇気が出なかった。だが、静謐でしっとりとした店内の空気はまさに、涼みながら身体を休めるのにも最適だった。


 初めてくる店なので勝手が分からず、少し進んだところで立ち尽くしていると、店員さんが一階でも二階でもどうぞ。と声をかけてくれた。密やかな声だった。


 二階に上がってみると、なんと言ったらいいのか。昔からある洋館のような、木目がこっくりとした色のテーブルや座席。それらが一斉に音響の方を向いていた。座ると必然的にそちらを向くように配置されている。


 左端の数列目の席へと腰掛ける。

 メニューを見るとドリンク類が主で、あくまでここは音楽を聴くことがメインなのだと解る。

 まだ暑さで頭がぼんやりとしていたので、レモンジュースを頼んだ。


 少しすると飲み物が運ばれてくる。レモンのさっぱりとした爽やかさが、のぼせた体を鎮めてくれた。

 一息ついてようやく余裕を取り戻してきた。


 店内に流された音楽が自然に体へ伝わってくる。

 家の再生機で聴く音楽と違って、空気を震わせて伝わってくる感じがした。だから身体全体に沁み入ってくる。

 しんと張り詰めた空気のなか、音楽にそっと包まれるようで、とても不思議な感覚だった。


 周りには何人かのお客がいた。その誰もが会話をすることなく、じっと曲に耳を傾けている。

 まるで映写幕の無い映画館に居るような。しんとしてここだけ喧騒とは程遠い、切り離された空間。

 少し歩けばスクランブル交差点があり、駅やビルや都会的な物ばかりなのに、ここはまるで静かだった。そのことが酷く不思議で、なんだか面白い。

 雑踏のすぐ近くに、こんなに密やかな空間があるなんて。


 クラシックはあまり詳しく無いけれど、確かにこの空間は私にとって居心地が良かった。

 物を書くには筆記音が気になってしまいそうだ、ならばいつか本を持ってまた訪れたい。そんなことをふと思った。


 数曲を聴き終えた頃には、私の体調もすっかり落ち着いていた。

 ここの空気は私を急かしたり、追い立てたりはしなかった。だから心も身体もゆっくりすることができた。



 流れていた一曲を聴き終えてそっと席を立つ。

 会計を済ませドアを開き、外へと踏み出す。じわりとした暑さが身を包んだけれど、足取りは来たときより随分と軽かった。

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