第10話 東都の朝 3
僕たちはいま、簡素な扉の前にいる。
地下1階といえども階段から差し込む日差しや魔法灯で十分に明るい。
「ここがお前の寝床だ」
ラケル氏から受け取った鍵で、少し重い扉を開けて入る。
「わぁ……新しいベッドだ!」
白いシーツが清々しい。テーブルと椅子、戸棚もある。
「ありがとうございます!」
「お、おう……新品じゃねえし……いや何でもない。ここでだらけてる暇ねえぞ。どうせ寝に帰るだけと思って、質素にしたんだ」
「そうでしたか」
「寝に帰るだけ」については元からそのつもりだが、そうか、この家具類はラケル氏から見れば質素なのか。
「この分だと、水回りのことも説明したほうが良さそうだな……。そっちの隅を見てみろ。水魔法と転送魔法を応用した、浄水道と汚水排出溝だ」
氏の指差すほうを見ると、壁の上のほうから管と、その真下に浴槽を小さくしたような陶製の囲いがある。囲いの底の隅には小さい穴が空いていて、金網をかぶせてある。
「上の管はこの塔の浄化給水槽に、下の穴は……ええと、汚水処理施設に通じてる。つっても転送魔法だから、管も穴も物理的にはどこにも繋がってない。万が一、その穴に物を落としたら絶対に回収できないと思え」
「気をつけます。……井戸まで行かなくて良いんですね」
「ああ。壺とか桶とかも好きに使い分けろ。食う寝るはともかく、身ぎれいにしていろよ。……ところで」
氏は僕に顔を近づけ、声を潜めた。
「食った後は口を拭っておけ」
僕は何のことか分からずにいた。
「あの館で、生きてた人間を襲った亡者は、俺と妹で倒したアレだけじゃねえってことさ。ああ……こんな話したくねえ! だがお前は聞かなきゃダメだ」
氏は深く溜息をつき、やはり潜めた声で続けた。
「助けた女の子たちにはバレてない。そこは心配いらない。おもに妹が上手く取り繕ったからな。着替えまでさせて。……お前がいま上着の中に着てるのは、あいつの予備の服だ」
ローラの異母妹の服を、僕は着ているんだ。思わず袖口を見、それから上着を脱いで脇腹を見たが、刺された時の破れ目がない。他は僕がもともと着ていた服とさほど変わらなく思えた。
お姫様育ちといえども荒事に相応の実用的な衣服を選んでいるのだ。ただ、言われてみれば二の腕あたりはきつい気がする。
「返さなくていいぜ。むしろ返すな」
浮わついた気分になっている場合ではない。
つまりラケル氏が言わんとするのは……。僕があの館で刺されてから、あばら屋で目を覚ますまでに、何があった……?
いや、僕が何かしたのか……?
怖ろしい考えは、外の騒がしい声に遮られた。
「まったく、憎ったらしい!どいつもこいつもエメロードが目当て!居なくなって何日経ったと思ってるのよ!」
「仕方ないよー。お客は毎日通うわけじゃないもん」
「男と逃げたって言ってやれば良かった!どうせロクな目に遭わないわ!ご自慢のプレゼントだって盗品に決まってるのにね」
帰路につく娼婦か何かの愚痴らしい。
ラケル氏はすっかり緊張感を削がれたようだが、僕はというと……。
外の女たちの同僚だか商売敵だかが実際どんな人か知らないが、緑の宝石を飾った耳族の女が思い出された。
その横にいた背の高い男、成人したばかりだろう若者、そして僕の両足の下であの時は息をしていた大男……。
僕が気づいてしまうのが何であれ、秘密が増えるに違いない。
「ラケル様、この部屋の壁薄くないですか」
「仕方ねえだろ、予算の都合もあるし俺はもう王族じゃねえんだ。
話を戻すぞ。妹は知っての通り神聖魔法の使い手だから、アンデッドとの戦いにも案外詳しいのさ。彼女が言うには、亡者が人を襲ったとき特有の服の汚れ方がある」
氏は自分の鞄から何か取り出した。
「こんな風に、口から垂れた血が襟元に」
言葉の通りの所がべったりと赤黒く染まった、それは僕の服だ。ラケル氏曰く着替える前の。その証拠に脇腹のところが切り裂かれていた。
……全部繋がった。刺されてから小屋に運び込まれるまでの間に、理性も人間性も失っていた僕は……。
僕は汚水排出溝のある隅に駆けより、真新しい囲いの上に屈みこんで、せりあがってくるものをぶちまけた。
そのなかには銀狼亭のメニューに決してありえない、たとえば爪のついた指先のような肉片まで混じっていた。それを慌てて金網を外して穴に放りこんだ。見るのも嫌だった。
ローラ! ローラ!
僕はこんなにも邪悪な浅ましい存在に成り果ててしまった。でも君だけは、僕を待っていてくれるのだろう? いや、待っていてくれ。
僕をこうしたのは、君なのだから。
(続く)
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