第17話 遥

 そして真上に留まる太陽は心に染みた。まだ流し足りない涙を、照らされているからだと思った。


「……ハルカ」

 ずっと聴きたかったはずの声も温度も、風は黙ってくれたのに、私がうるさかったら捕まえられない。

「…っ」

「…泣くなよ」

「だって、鷹矢くんは…っ」

「言ってただろ…『いつかまた会える』って」

「そんなの…っ!」

 嘘に決まってると、どうして言えただろう。その表情を前にして。

「…」

 平気なわけなかった。伏せた濡れ睫毛は、鷹矢くんが溢していった最初で最後の涙の痕。それを拭った指先を、タカヤくんはぐっと握った。

「やっと会えたってのに、…せめて泣きやめよ」

 日を背中で受け止めながら、タカヤくんは腰を折って私を見下ろす。

「…無理だよ」

 会えたことを手放しで喜ぶには、あまりに悲しい別れだった。哀しい顔だった。最後くらいは笑顔で、なんて言葉は、投げ捨ててやりたいくらいに。

 最後だからこそ、もっと泣いて良かった。あんな風に笑うくらいなら、もっと泣いて欲しかった。

「じゃあなんで鷹矢を選ばなかったんだよ」

 私の望むものを全て与えてくれて、何一つ置いていってくれなかった。始まりから結末まで、綺麗すぎるくらい綺麗な彼は。

「選ぶとか選ばないとか…」

「そういう問題なんだよ」

 むしゃくしゃと息を吐いて、タカヤくんはへたり込む私の両肩を掴んだ。無理やりに合わせた視線は、記憶と少しも違わなかった。

「…俺といるときは、笑わないよな」

「…?」

「怒るか、泣くか、そんな顔ばっか」

「そう…だったかな」

「そうだよ」

 最後に合わさった雫が草を打つのを見届けるまで、タカヤくんは瞬きもせず私を見ていた。やがてため息と言うには薄過ぎる息をついて、両手ごと離れていく。

「鷹矢といるときは笑ってたくせに」

「…え…」

 立ち上がっても俯いたままで、まだ、陰を探しているみたいな瞳。でもその翳った顔は、足元の小さな影溜まりから徐々に、光に向かおうとしている。引っ張られて、止まり、戻り、また、少しずつ。

「…勝手だよ、あいつ。急に好きとか言い出して、」

 無理に見せられることは拒んでもいい。けれど、見なくちゃいけないと、自分で思えたそのときは。

「急に、こんなとこ、連れ出して…」

 瞳を震わせながらも、逃げたくないと彼は戦う。私が背中を押さなくたって、最後の一歩を、もう踏み出そうと。

「本当…」

 そして視界におさまる、終わりのしるべ。

 ここで、あの日から彼女が毎昼夜眺めてきた景色を。

 二人が暮らしてきた確かな現実の街を。

 よく晴れた夏の空を。

 明るくて容赦ない太陽を。

 目にしたら、

「…腹立つ…っ」

 タカヤくんは、夢から醒めた。




「鷹矢くん、言ってた。ここが夢の、おとぎ話の終わるところだって…」

 ただ黙って静かに晴夏さんと対峙するタカヤくんが、何を思っているのか、私には到底量りしれないけれど。向日葵はまた少しずつ、こうべを垂れはじめていた。

「…」

 今日の日も、終わりへ傾いていく。

「もうやりきったんだね、みんな。お父さんもお母さんも梨衣奈ちゃんも…鷹矢くんも…」

 その後ろ姿は動かない。影だけが僅かずつ伸びていく。

「私は、ちゃんと晴夏さんに成れなかったけど…」

 その先端が、ぴくりとした。

「自分勝手に、途中で何度も投げ出しそうになって…」

 もっと、口を閉ざして見守っておくべきだったのかもしれない。振り返った彼の顔に、激しさが広がるように、見えたから。

「…っ」

「…ごめんね。分かってるのに…でも、鷹矢くんが全部見せていいって、言ってくれたから…」

 誰のせいで怒って、誰のために泣いて、誰の前で笑いたいのか。綺麗な役はしなくていい、もうおとぎ話は終わったのだから。

「次に会えたら伝えるって、決めてたから…」

 湊人に心配かけないように。


「だからっ…」


 視界の真ん中、立ち尽くす彼が今はどんな表情をしているか、私には分からない。


「私は、清次遥は…っ、」


 だめ、また泣いてる。


「タカヤくんのこと…っ」


 滲み、霞む。本当は笑いたかった。あなたの前で、あなたみたいに。

 だけど止まらない。溢れる涙を隠そうとした左手は、

「…泣くなってば…っ」

 強い力で引き寄せられた。

「…っ」

 全てを拭っていくのは、忘れそうなほど触れていなかったのに、決して忘れられなかった熱。

 それより熱い温度。

「……タカ…っ」

 唇に押し付けられた肩。

 腰をくるむ腕。

 肩に焼き付くような掌。

「…ヤ、くんっ…」

 息が苦しい。でもあの夜とは違う。

 どうしてこんなに安らげるの?どうして涙はまだ、頬を伝っていくの?痛いのに痛くない。まやかしじゃないと、頷いてもいいの?

「…」

「…」

「…謝るのも、勝手なのも俺だって、本当はずっと分かってた」

 首に染み付くその言葉が、泣きそうで。

「見たくない現実に…目を背け続けていれば、無かったことにできるって、思い込みたくて」

 熱くて。

「似てるから晴夏にしてやれなんて、乱暴な夢に、俺は…」

 軋んで。

「…もう、っ」

 その先は、もう言わなくていい。

「…傷つけ…ないで…」

 これ以上、増やさなくていいから。

「…ごめん…」

「自分を…」

「え…?」

「タカヤくんにっ…もう傷ついて…欲しく…っない…」

「…何言ってんだよ…俺は…」

「だって…!」

 心配だった。

 晴夏さんのことで、自分を責めて責めて痛め付けてしまうあなたが。

 不安だった。

 晴夏さんに成りきれないでいる私が、傍にいることが。

 だから、怖かった。

 そんな、面影を乗せただけの私が、本当はいつも、深い傷を抉っていたんじゃないかって。

 あの日のように。

「…それでも…っ」

 私を見て欲しい。


「好きだから…」


 どうしようもない気持ち。初めての「好き」という言葉。これまで一度も差し出せなかったそれがやっと、初めて今、唇を離れ。


 好きだから苦しい。

 好きだから切ない。

 好きだから羨ましい。

 好きだから泣きたい。

 好きだから会いたい。

 好きだから見て欲しい。


 お願い、私を見つけて。


 ずきずきして、しくしくして、ぐちゃぐちゃの、目を覆いたくなるほどみっともなくて醜い。

 綺麗なだけじゃ決してなかった。

 おとぎ話の彼女じゃなくて、今をめくる私の想い。


「…っ好き…なんだもん…っ」


 刹那、少しだけゆるんだ腕は、少しの躊躇いと、私ごと突き抜ける熱を抱き。しばし、吹き抜ける風に身を委ねて。

 私を宥めているようできっと、奥底に沈めていた気持ちがここまで浮かんでくるのを待っていた。


「…俺が、それを認めたら…消えてしまうんじゃないかって、ずっと思ってた」

 そして水面に顔を出す泡がたちまち弾けるように、タカヤくんはぽつりぽつり、言葉を紡ぎ出す。

「…晴夏といつまでも一緒にいたいと、本気で思ってた…」

 私は吐息で頷いた。

「…晴夏だけを見続けるって、ずっと前から…」

 今度は瞼で頷いた。

「なのに、その俺がこの気持ちを認めてしまったら、今度こそ晴夏はいなくなる…好きだったことも、全部…」

 最後は涙が頷いた。

「どこにも、いなくなるだろ…?」

 だから私は、両手で思い切り伝える。

「…ならないよ」

「なんでそう、言えるんだよ…」

 それから両腕をゆっくり剥がす。

「…笑ってみたら分かるよ」

 預けていた頭を起こし、私は涙を払った。眉を歪ませたまま困惑する彼を見据える。


 ――良く晴れた夏の、太陽みたいな子だったわね。


 真っ直ぐ目を見て言えるのは、不思議と確信めいていたから。晴夏さんに会ったことのない私だけど、だって、タカヤくんの笑顔は――。

「ね、笑ってみて」

「…訳もなく笑えないよ」

「私も笑うから、ね?」

「…」

 たった一度で、私の心に焼き付いた。

「もっと」

「…そう言ったって…」

 眩しい光を幾つも溢れさせて、焦がれさせて。

「だめ、もっと」


 彼の暗い瞳が晴れますように。焼き付くように、灼熱の太陽みたいに、またそんな顔で輝いてくれますように。すべてを溶かしたあの、包むような光を見つめさせて。心がいっぱいに溢れるくらいまで、私に。

 どうか、見せて。


「笑って!」

 そう、そんな風に。

「…ほら、」

 タカヤくんが笑えば、たちどころに景色は白く、白く。


「ちゃんといるよ、タカヤくんの中に」


 ずっと、欲しかったもの。


「…夏の太陽みたいな、晴夏さん」


 好きな気持ちが無くなってしまうなんて、そんなことないよ。知らない間に、どこかで自分の一部になっている。

 私も、そうだったから。


「晴夏…」


 そうしていつまでも一緒にいられる。

 もうとっくに、家族なの。




 丘に降り注ぐ陽差しはいつしか和らぎ、まるで祝福の天使が降り立つ前触れ。はしゃぎまわる風に乗せられ、緑は盛大に手を叩いて迎える。


「……ありがとう、」

 深く深く息を吸い込んだタカヤくんは、もう一度微笑った。太陽に見せるように笑った。

「…ずっと言えなかったこと、俺も今、言うよ」

 私の頬を、やわらかな朽葉色の髪が撫でていく。彼の目線を追えば、行き着いたのは明日には盛大に咲きそうな向日葵の後ろ姿だった。花びらが日に透けていた。

「…確かに俺は、晴夏を重ねてた」

 見つめ続けることが、どんなに切なくて時に罪深いことかを、その眼差しは説くように。

「けど、似てるのは姿かたちだけで、全然違うことくらい、最初からちゃんと分かってたよ」

 そしてそのまま私に向かう瞳は。この青空を映しているはずなのに、それよりもっと、晴れ渡っていて。

「それでも傍にいて欲しいって思う理由を、ずっとはぐらかし続けて…」

 見つめ返せば、触れられたくて吸い寄せられる。惹き付けてやまない、彼の熱。

「でも、抱きとめて、やっと認めた。俺は守りたい」

 強くて、やさしい、ぎゅっと腕。

「どこにも行かせたくない」

 全身に伝わる温度と気持ち。

「…、…」

 それから耳に届く、音は――。

「っ!」

 今、なんて?

「タカ…」

 確かに、聞こえた。




 ――遥。




 溢れ出す。それだけで全てが一斉に。

 涙が、流せずに貯め込んでいた好きの涙が、底をついて、空っぽになって。

「今、…なんて…?」

 それが私の名前だったから。


「遥を、好きになってた」


 もう何もないはずなのに、まだ溢れていく。

 息をするよりはやく、たくさん、次々新しい好きが生まれるからだと、彼の言葉を聞いて分かった。

「…っ」

 満足に声も出せないくらい。


 そんな私を見つめて笑う、彼の表情が、これまでみたどれよりも眩しくて、焼き付いて、


「…私も…タカヤくんが…」


 熱いのに、ほんのりあたたかさをも感じた気がして。


「好き…っ」


 愛しくて愛しくて。

 倒れ込むように抱きしめ合う私たちを、いつまでも彼女が支えてくれていた。

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