第16話 おとぎ話の終わり
明けて昇る太陽は目に痛かった。昨夜流さず溜めた涙を、灼かれているからだと思った。
「遥。少し外で待ってて」
「うん」
右足のサンダルのストラップを踵に掛けて、私は後ろを振り向いた。にこりとリビングへ引き返していく鷹矢くんの足音を聞きながら、私はまた扉の開いた玄関から見える、丘の景色へと目を遣る。
空の青に食い込んでいく緑の、生き生きとしたうねり。昨夜はどこかに潜んでいた風も、今朝には戻り、そこで走り回っていた。
「…母さん、」
草木の掛け合いの間隙を、鷹矢くんたちの声が縫ってくる。
「…、…」
左足もきちんと履いて、私は一歩を前へ。
雲ひとつない、良く晴れたお昼前。夏の日射しの下へ、わっ、と飛び出した。
長くて細い草たちが、いっぱいにそよぐ。風にくすぐられて揺り笑う、そのたびこちらへ打ち返す陽に目を瞑る。てっぺんはすぐそこ。ここまで来ると空がとても近い。
「わわっ…」
なだらかな丘は滑りやすいこともあって、私はまたバランスを崩した。
「大丈夫?遥」
「うん、平気」
もしかしたらスニーカーとか、そういう靴のほうがよかったのかもしれないけど。硬い葉が素足を啄むのは、思ったほど嫌じゃない。
「もうすぐだよ」
振り返り手を差し伸べてくれる鷹矢くんの姿が、昨夜のそれとまったく同じだった。
ただ陽光に飾られた睫毛も、抱き込まれた髪も、食まれた頬も唇も、とても似合わなかった。
揺さぶられた視線がとうとう足元に落ちてしまうくらい、どれも似合わなかった。
彼が在るのは、月の危うさとか、人の夢とか、そういうものの中。
私は冷たい手をしっかりと握りしめながらも、そんな悲しいことを思い知ってしまった。
「わ、あ…!」
つい声が漏れてしまうほど。あと少し、もう少しと登るほどに、緑はぐいぐい視界の底へ押し込まれて、その景色が眼下いっぱいに広がる。
鷹矢くんに手を引かれて、私たちはとうとう丘の一番高いところまでやってきた。彼の隣まで、最後の一歩を今、地につけたところだ。
「どう?」
並んで見下ろす、絵本の世界。深い緑に囲まれて、木組みの家々が連なる。森に溶け込んだやさしい色はまるで、はじめからその一部だったよう。ここで本当に人が暮らしを営んでいると知っても尚、幻想的に見えてしまう、この小さな街を一望できる、この丘はとっておきの場所に違いなかった。
「すごいね…!」
「良い眺めだろう?」
「うん…!」
ゆるやかな風に抱き留められながら、私は憧れていたこの世界に夢中になった。きっと、あの池のほとりのお家にシンデレラは住んでいて、今夜魔法をかけられる。舞踏会が開かれるのは向こうのお城。馬車に乗って出掛けていって、そこで王子様に出会って、ガラスの靴を――。
ふと気がつけば、鷹矢くんはもう隣に腰を下ろして、そんな私を見て微笑っていた。ちょっぴりはしゃぎすぎたかも。私は首もとのガラスの靴をきゅっと握ったまま、萎むように座り込む。
「どうしたの?」
「ううん…なんでも」
「もっと喜んでるところ、見せてよ」
「そんなに、騒いでた?」
「あはは」
「やっぱり…」
「可愛かったよ」
恥ずかしい。私の頭は抱いた膝に飛び込んだ。でも、そんな風にしていると勿体ないから、すぐにまた顔を上げる。
それきりしばらく、静かだった。
「…林堂くんとは、どう?」
そんな沈黙にするりと馴染む、鷹矢くんの声は、風が鳴るのを妨げない。この街と同じように自然に寄り添うような、やさしい響きをしていた。
「もうすっかり元通り。…まるで何もなかったみたい」
私は折っていた脚を投げ出す。
「そっか。…少し寂しそうだね」
「ふふ…寂しくないって言ったら嘘かも」
その風が前髪をさらっていく。そして異国のにおいを引き連れてくる。それが昨夜からずっと漂う何かを、助長しているように思えた。
「今だから言うけど…初恋だったの」
「うん…」
「このこと、湊人には内緒ね」
「どうして?」
「…だって、勘違いで失恋したと思い込んでたなんて…知れたら、ばかにされる」
「そんなことないと思うけど」
「とにかく、だめ!」
「あはは、分かったよ」
「…」
「…」
一瞬弾けた声は、いつからか先細り、この広々とした丘一帯に響かずスンと消えていく。だから少しの無言も落ち着かなくて、また街並みに両目を逃がす。
「…あのね、僕も初恋だったよ」
それを引き留めるように呟くから。私はゆっくりと鷹矢くんのほうへ顔を戻す。彼はまだそこを見ていた。
「遥のこと」
「…!」
遅れて私の視線に応える彼が、控えめに笑ってみせた。
「…」
そんな笑い方が、余計に。
「どうあれ、僕には最高に綺麗な、おとぎ話だったよ」
ひとつ伏せた瞼が再び上がっていくと同時に、鷹矢くんは躊躇いなく立ち上がった。横顔がどこか清々しくて、満足そうで。
「…」
やりきったんだと。
「遥」
「…なに?」
昨夜からずっと続くもの哀しさの正体。
「この先に、会わせたい人がいるんだ」
別れの予感。
「…」
「…ついてきてくれる?」
それを望むわけがない。でも、望みを叶えようとすれば、絶対に避けて通れないから。
「…やだって、言ってもいいの…?」
すぐ手前まで来ておきながら駄々をこねる、私の背中に日射しが両手を押し付ける。
「…だめだよ。そうしたら、僕は遥を泣かせてしまう」
太陽はまもなく真上に来る。今か今かと、鷹矢くんの背中に突き刺すため振りかぶる。
「物語に、結末はひとつしかないから」
明るくて、酷な。
「…!」
その唇の動きを、私は前にも見たことがある。
「遥は、どっちを選ぶ?」
問いは、容赦ない光に溶けて。
「…タカヤと、僕と」
弱く響きすらしない鷹矢くんの声は、どこまでも幻想めいたこの世界を激しく揺さぶる。千切れるほどしがみついても、保つには足りない。座り込んで首を振る私に粛々と、突き付けてくる。
「ここで選ばないと、」
どちらか、ひとつだと。
「二度と…会えないよ」
だったらせめて、言って欲しい。あのときみたいに「僕を選んで」って、
「会えなくなってもいいの?」
言って欲しい。
「…や…」
お願いだから、言ってよ!
「…っ」
声にならなかったものに代えて、溢れてくる涙を、鷹矢くんはひとつひとつ掬ってくれた。
ぼんやり、はっきり。曖昧な視界がクリアに。その繰り返しの中で、鷹矢くんはいつもと変わらなくて、こんな時でさえ、笑って。
「…遥」
だから私も立つしかない。
鷹矢くんの覚悟を前にして、私だけ自分勝手に叫べない。
「会いたい…っ、」
ずるいよ。
「タカヤくんに、会いたいよ…!」
こんなふうに「私」を引きずり出すなんて。今まで必死に、押し込めようとしてきたのに。
あなたたちは二人して、本当に――。
「うん。…来て。遥」
何度こうしてくれたか知れない、もう最後かもしれない。私はぎこちなく立ち上がり、そこで待つ彼の右手に、涙まみれの左手を乗せた。
すすり泣く声だけは風も抱いては行ってくれなかった。
緑を踏むごとに青は落ちてくる。
知らない香り、憧れた街並み、それなのに空だけはひどく見慣れたそれと変わらない。
裏切られたと感じるべきか、ほっとしたと少しでも心を落ち着けるべきか、分からないままに私は呟いていた。
「…空は…日本で見るのと、変わらないね…」
日の光が涙の筋をさわっていく。乾いて、灼けて、でも、どうしてかさっきみたいには痛くない。それどころか――。
「…それを聞いて、彼女も喜んでるよ」
「え…?」
目線の先、丁寧に草の刈り込まれたそこに現れたのは、街を望むように淑やかに佇む墓標。傍らに植えられたまだ若い向日葵たちが、懸命に太陽を追いかけていた。
「もうひとつの故郷の空ってどんなかなって、言ってたようだから」
吸い寄せられるように、私は鷹矢くんの手を離れて、晴夏さんの前で膝をついた。ここだけ少し土が湿っていた。
「…見たことないの?」
手を合わせながら問い掛けたって、もちろん晴夏さんから返事が返ってくるわけじゃない。それでも彼女と話がしたかった。どんな人か、もっと知りたかった。
「……」
無言の会話は、騒ぎだした風に消え、
「ここがタカヤの夢の終わり」
瞼を開いたら、降ってきた声。鷹矢くんは、ぐうっと首を伸ばして天を見上げようとする花を、静かに見つめていた。
「春に言ってたお墓参りも、…ここのことだったんだね」
「母さんから聞いてた?」
「…うん」
刻まれた日付は、夏から春。
今日が、そう、あなたの誕生日。
「本当はね、」
丘を吹き上げていく風が、強さを増してきた。鷹矢くんは腕でそれを避けながら、今度はぶつかり合うように声を張った。
「タカヤもずっと、夢から醒めないといけないことは、分かってたんだ」
だから、心の底で眠る彼にも届いている。
「最後のあとちょっとを、踏み出せないでいただけ。臆病だからね、タカヤは」
しばらく胸のあたりに視線を留めてから、鷹矢くんはこちらに顔を向ける。
「だから…遥が背中を押してあげて欲しい」
「鷹矢くんは…?」
「タカヤの夢が終わるなら、僕たちのおとぎ話もおしまいだよ」
一層激しくなる風が、無理やりページを捲る。
「だから『ハルカ』も『鷹矢』も、」
そっと私の首元に触れた指先が、ガラスの靴をなぞる。
「もういらない」
シンデレラも王子様もいない世界で。今立っている現実の世界で。
「遥は遥のままで。タカヤに、全部見せてあげて」
皆が役目を終えて、衣装を脱ぎ捨てて、他の誰でもない、自分自身の心だけを持って。
「涙も、そのあとの笑顔も。好き放題された分、怒ったっていい。…ね?」
私は私として、この想いを、彼へと。
「でも、そしたら鷹矢くんは…っ」
「…綺麗なだけのおとぎ話の中に、欲しいものはないって、分かっただろう?」
どこからか音が聞こえようとしている。
「でも、やだ、いやだよ、だって…っ!」
「僕なら大丈夫。きっといつかまた会えるよ」
さっきの台詞。出掛ける前、お母さんたちにも同じ事を言ってたでしょう。聞こえてたんだから、すべて。皆が泣くのを堪えて送り出してくれたことも、全部全部知ってるんだから。
「う…っ」
「いつか」なんて、来やしないことも分かってる。やさしい彼の、やさしい嘘だってことくらいは。それでも、もう。
「……鷹矢くん…っ」
頷くしかないじゃない。そんな風に、笑われたら。
「ありがとう、」
パチン、と、何かが弾ける音のする直前。
初めて見た、鷹矢くんの涙顔は、
「…遥。大好きだよ」
絵本の王子様の笑顔よりもずっと、ずうっと、脆くて、儚くて、最後まで瞳を開けていたくないくらいに。
「鷹矢くんっ…!」
綺麗だった。
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