第15話 見えない笑顔
指先から、肩に傾く頬から。伝わるあたたかさ、それが芯に届く頃。ブランケットを口まで被せて、頷きながら微睡む私の耳に、いつまでも残っていた。
彼のやさしい、吐息のような声。
――遥は遥のままで。
ギギ、ガクン、ドゥルルン。そして車は停まる。
夏休みも折り返しを過ぎたこの日、私は蓮未一家に帯同していた。
フランクフルトから揺られること二時間。舗装すらされていない農道や石畳の道を越えて、目的地へ着いた頃には私のお尻はじんじんと痺れていた。
「ふうー。お疲れ様。ダンケ!ハンナ」
鷹矢くんのお母さんは車を回してくれたお友達にお礼を言うと、助手席から脚を出して立ち上がり、うんと伸びをした。けれどすぐにまた顔だけ覗き込ませて、一向に出てこようとしない私を見やる。
「着いたよハルカちゃん。…ハルカちゃん?」
「あ…すみません、ちょっと、立てなくて」
一番後ろの席に一緒に座っていた梨衣奈ちゃんが、私の腿をさすりながらにこっと掬い上げるように笑う。
「やっぱり、いちにちフランクフルトにとまればよかったね!」
「ふふ…そうだね」
やっとのことで外へ出ると、鷹矢くんのお父さんがトランクから続々と荷物を取り出しているところだった。
「すまないね、僕が仕事で明後日には日本に向かわないとならないものだから」
「いえ…!こちらこそ、私まで連れてきていただいて…」
申し訳なさそうに首を捻って、私の分を手渡してくれた。恐縮しながらそれを受け取る。
「遥。荷物は僕が持つから」
歴史を感じさせる石畳も、スーツケースを持つ身としてはじっくり見ることも叶わない。何度もキャスターを引っ掛ける私を見かねて、鷹矢くんが手を貸してくれる。
「あ、でも」
「ふたつくらい、平気だよ。それよりほら、見て」
「え…あ、わあ…!」
鷹矢くんが目で示す先。そこにあるのは、誰もがうっとりと声をあげて足を止めてしまうくらいに、ファンタジーな景色。
「すごい…!」
おとぎ話みたい。右も左も、振り返って見渡しても、木組みの可愛い家が建ち並ぶ。空想から飛び出したような、はたまたミニチュアがそのまま大きくなったような。縦横斜めに走る深い色と、ベースの淡い色との美しいコントラスト。とんがり屋根に突き出した窓、そこからこぼれそうな色とりどりの小花たち。
「どのお家も可愛い!」
絵本そのままの世界が、広がっている。
「だろう?観光で訪れる人も結構いるんだよ」
「あ、ねえ!あれ、お城?」
「うん。小さいけどね」
「へえ…すごい、お姫様が住んでそ…う…?」
ふと、鷹矢くんはにこにこ、私を見ている。
「…どうしたの?」
「ううん。もう少し歩くよ。…こっち」
お城の前の広場にはたくさん見られた人も徐々に少なくなっていく。聞けばあの辺りはほとんどがお店や宿で、地元の人は中心部からは離れたところに居を構えているのだそう。
「ほら見えてきた。あれだよ、赤茶色の」
小高い丘に寄り添うように点々と、広いお庭にやっぱり三角屋根の木組みの家たち。お昼過ぎの青空にくっきりと映えて、緑と調和した見事な景観だった。指差された先にあるのは、その中でも一際大きなお宅のようだ。
「おっきい…」
「あはは、この辺りは田舎だからね。割と普通なんだよ」
そうは言うものの、うちの倍は優に越えていそうだ。思い返せば、日本のお家も立派だったなぁ。
「おにいちゃーん!おねえちゃーん!はーやーくうー!」
もう随分先を歩いていた梨衣奈ちゃんたちが、玄関の前で手を振っている。
「ふー。リーナは元気だなぁ」
「あ、鷹矢くん、もう自分の分、持てるから…」
ついはしゃいでしまっていた私は、振り返って手を伸ばした。
「いいから。ゆっくり行こうよ」
夏の太陽を背にする細い髪と睫毛が、金色につかまっていく。ふと、その幽かな笑みも、連れていかれそう――。
「…!」
「…?どうしたの、遥?」
思わず、私は荷物を持つ彼の腕を掴んで立ち止まっていた。不思議そうに私を見る彼の丸い瞳と、自分の手とを見比べる。
「…あ。ごめんね、なんでだろ…」
こんな風にしていたら、彼の邪魔になるだけだ。言い訳も思い浮かばず、ぱっと手を離して俯く。そよぐ前髪の先で、鷹矢くんがふっと微笑うのを感じた。
「今は両手、塞がってるけど…」
そろそろと顔を上げたら、
「後でまた繋ごう」
今まで何度も見せてくれた、
「手。ね?」
やさしい、やさしい笑顔。
「…」
私は、だから。
「うん…」
赤い顔を見せたっていい。その分、この表情を、真っ直ぐ受け止めていたかった。そうしないと、いけない気がした。
「長時間の移動で疲れたでしょう。今日は家でゆっくりしたら?」
そう言って鷹矢くんのお母さんが、丁度コーヒーを淹れてやってきてくれたところだ。道中で見繕ったブッタークーヘンも綺麗に切り分けられている。
その苦くてなめらかな香りたちと、お陽さまや草木の匂いとを私は一息に吸い込んだ。テラスに面した窓は大きくて、この時間帯は日差しと風がよく入る。こちらの夏はとても爽やかだ。
「それがいい。ハルカさんも慣れない場所だしね」
見るものすべてが真新しい異国の地、彼のお家。
ぬくもりのある真っ白な壁に飾られているのは、すずでできているらしいミニチュア。これは古い薬屋さんをモチーフにしたもののようで、小さな引き出しまで細かく丁寧に着色してあった。
あちらのリビングボードに並べてあるのは木製の小人たち。身に付けている服や帽子はもちろん、それぞれ微妙に表情も異なって面白い。飾るものひとつとっても、一日中見ていて飽きない自信がある。
ここにあるすべてが、おとぎ話の体現だった。
「すみません、お邪魔している上に気を遣っていただいて…」
かと言ってあんまりきょろきょろするのもお行儀が悪い。ひとつ頭を下げたら、私は勧められたチェアに腰掛け、カップの中を覗いた。
「じゃあきょうはリーナとあそぼー!あのね、おっきくてニッポンにもっていけなかったパズルがあるの!ね、こっち!」
「どんなのだろー?楽しみだなぁ」
「こらリーナ、彼女は疲れているんだから。そんなに引っ張ったらだめだろう」
どうやら梨衣奈ちゃんは私を二階へ案内してくれるらしい。レトロ感ある硝子の嵌まったドアを開けて、先の階段を指差している。私はその鈍い蝶番の音にすら、風情を感じてしまう。
「おにいちゃんも!きてきて!」
「だから、ね。丘に行くのは明日にしましょう」
鷹矢くんが置いたコーヒーは、まだ揺らめいていて、そこにどんな面差しを乗せていたのかは分からないけれど。
「うん…そうだね」
梨衣奈ちゃんに連れられながら見た彼の横顔は少し寂しげで、
「おねえちゃん?」
それでいてお母さんに返したその声は、ほっとしたような響きを纏っていた。
その日の晩はとにかく楽しかった。
梨衣奈ちゃんと私とで、お母さんのお手伝いをしていたら。ケーキを作る工程を、はじめはじっと眺めていた鷹矢くんも、途中から加わった。何度も「これでいいの」と確めて、お母さんに色んなことを尋ねて。最後には皆でせーのでオーブンへ入れて、笑い合った。
それから鷹矢くんは、焼き上げたケーキを誇らしげに持っていった。リビングで寛いでいるお父さんが「ありがとう」と閉じた本についても、質問攻めにしているようだった。壁掛けのブックシェルから取り出された本を何冊か、お父さんから受け取って彼は、とても嬉しそうにしていた。
夜はどんどん更けていくけれど、いつまでも明るくて、どこまでも続いていきそうな時間だった。梨衣奈ちゃんが、目を擦りながら眠たそうにしているのに、「眠くない」と頑なにベッドに入るのを拒んでも、それをご両親とも、もちろん鷹矢くんも、窘めたりしなかった。
もっとこうして過ごしていたい。
誰もが、そう思っていたからだった。
涼しい。日本の夏の夜とは段違いの肌寒さに、私は目を覚ました。視線を上へ向けたら、梨衣奈ちゃんがほっぺたをむちゃっとさせて寝息を立てている。つい笑みがこぼれた。
まだ瞼に残る眠気を、そのままゆっくりと瞬きで追い払う。その数度の間に思い出す。この場を離れがたくて、とうとうここで眠ってしまったこと。いつ夢に落ちたかも分からないくらい、楽しい夜だったこと。
私は彼女の頭が沈まないようにソファーに手をつき、体を起こした。ハンモックにはお父さん、一人掛けのチェアではお母さんがタオルケットにくるまっている。
鷹矢くんは、いない。
「…」
床に足をつけたら、ぼんやりとした光がここまで伸びていた。私のことを呼びに来てくれている気がして目で辿ると、大きな硝子のあちら側、月明かりに浮かぶ彼の影。
腕を抱えて羽織るものを探す。暗くて見当たらない。あまりごそごそして皆を起こしてしまうのも悪いから、私はそのままテラスへ出た。
「鷹矢くん」
そう声を掛ける前に、彼はこちらを向いていた。やっぱり月は遣いだったんだと確信する。
「…目、覚めちゃった?」
「うん…」
白いはずのシャツが、夜闇に染められ薄青い。おいでよと微笑う彼の、手に触れた。
「…」
冷たかった。ふんわり繋いだ二人の手。間にあるのはそれだけで、何をするでもなく空を見上げている鷹矢くん。私も倣い、そうした。あの時のような苦しさも激しさもない、落ち着いていて、静かで、風も凪いでいた。
体温は少しずつ、一緒になろう、と。
「…眠れなかったの?」
「…いや、寝ないでおこうと思って」
「どうして?明日、出かけるんでしょう?」
「うん。…だから」
鷹矢くんは言葉を切って瞳を閉じた。左手は胸に、心に語り掛けるように。
「喧嘩したくなかったんだよ。今夜だけは」
動かない景色、生まれない風。一枚の絵のような数秒を、私の鼓動が台無しにする。
「…」
誰となんて訊けなかった。訊かなくても分かった。
「夢で会うと、絶対言い合いになるから」
私は固まってしまった。僅かでも動けば、危うい静は容易く破れる。
私は努めて息を殺した。彼の存在がその口から飛び出すことに、どう反応したら良いのか、迷った。
「…、」
ずっと話題にするのを避けてきたから、癖がついたのかもしれない。指先からチリチリ上ってくる痺れがとうとう唇にまで達して、気付くと私は、不自然に話題を逸らしていた。
「…今日、楽しかったね」
小さな満月の佇む夜空は、そこだけ穴が空いたようで。
「うん…すごく、楽しかった」
見るほどに切なさが込み上げてくるけれど、今はそうする他なくて。
「ドイツに来てって言われたときは最初、どうしようかと思ったけど」
身動ぎひとつしない木々を恨めしく思ったり。
「ごめんね、急に」
声がほろほろ散るたび、憩いが失せるのを感じたり。
「ううん、連れてきてもらえてよかった。可愛い街に、お家も素敵で」
ドクン、ドクン、と蠢く心を紛れさせようと、饒舌を演じた。
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
せめぎあう、声と音。
「…それから、あったかいご家族」
握り合う手に、少しだけ力がこもった。
「そうだね…本当に、そうなんだよ」
震えていたのは、どっち?
「だからこそ、このままじゃだめなんだ」
いつしか、彼の横顔は暗色を迎えていた。降る月の救いから逃れて、ただじっと、無防備な背中を太陽が貫くのを待っているかのよう。
「え…?」
「前はたくさん…あったはずなのに」
そして振り返った。さっきよりも家の奥まで染み込む月光に包まれる、やさしい寝顔たち。鷹矢くんはその一人ずつを見つめて、それぞれに思いを馳せている。心から大切に思い、数えきれない感謝を感じている。瞳に映る景色がそう言っている。
だからこそそこに混じる、不透明な色をもう見過ごせなかった。
「…」
「…」
あたたかい家族に、あるはずのもの。今夜のような笑顔と笑い声。きっとこれまでにも、いつの時もたくさん――。
私は、昼間見たそれを思い出す。壁飾りからはみ出した日焼け跡。リビングボードの、感覚の広く空き過ぎた小人たち。
「あ…」
たぶん、名残だった。以前はそこにあった、溢れんばかりの家族写真の。
「僕を…タカヤの心を成立させるために、母さんたちが全て隠したんだ」
あれば思う、思えば乱れ、壊れるから。
「…どんな思いだろう。晴夏を亡くして、タカヤが病んで、楽しかった思い出すら取り出せなくなって」
家族の記憶を封じ込めて、そうするしかなかった彼らの、はちきれそうな気持ちが月の川を伝い流れてくる。私は嗚咽を堪えて飲み込む。
そうまで完璧に隠せるものじゃない。笑顔の分だけ泣いている。一緒に涙を溢した、あの日の鷹矢くんのお母さんがそうだったように。
「あのときから、皆はただ綺麗に描かれた登場人物なんだ。自分をしまって、役に徹している」
そう。私だけじゃない。皆がかたちになれない想いに苦しんで、例外なんてなかった。
「そんなおとぎ話は、誰が、どうすれば…終われる?」
鷹矢くんだって、そうだった。
「…っ、鷹矢く…」
月が隠れる。
星が散った。
「待って、遥」
真闇に心細さを、声だけで鷹矢くんは押し返す。私は繋いだ手でしか彼を確められない。
「明日、連れてくから。約束した場所に…だから」
だけどやっぱり、冷たかった。
「それまで、待って」
そう言って笑った、気がした。
何も見えないここで、彼が見せた表情のことを、誰にも保証なんてできるはずないのに。
「…うん…」
それでもやさしく、やわらかく微笑っていたと、その笑顔しか思い浮かべられない私は、鷹矢くんに一体何を求めていたのだろう。
眠れない夜に、眠らないあなたと。月も聴くのをやめてしまった、おとぎ話はそれでも、向かわなければならないから。
ページは僅か、終幕へと。
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