第6話 王子と暴君とシンデレラ

 文化祭が始まった。午前は文化部の発表会。朝から全員が講堂へ集まることになっている。しのぎを削るのは例年、吹奏楽部と被服部らしい。熾烈なプレゼン争いの結果、開幕は吹奏楽部、被服部がラストを飾ることになったそうだ。


 そして、美冬ちゃんは有言実行をしてみせた。数日前、衣装補正のために被服室へ呼び出されたときのこと。教室の扉を開く私の元へ、美冬ちゃんは飛び跳ねながらやって来て、

「遥っ!やったよっ」

 ぐっと私の両手を握る。

「どうしたの?」

「先輩が、トリやっていいってっ!」

「…えっ!?」

 本来ならば、三年生の卒業制作の発表の場でもあるので、一年生がトリを務めることはほぼ無いだろうという話だったはずだけど、部長さん曰く、美冬ちゃんの情熱と群を抜いた作品の完成度に、もはや反対材料が見つからなかったらしい。

 しかも、二年生の劇で使うお城のハリボテを借りられることになったので、演出にも力を入れた、近年稀にみる大掛かりなステージになると張り切っていた。


 つまり、私たちの出番は大トリも大トリ。肩にのし掛かるプレッシャーは計り知れない。

「胃が痛い…」

 キリキリキリ。発表会はまだ始まってもいないのに、講堂中に響くざわめきにすら苛まれるほど、私は緊張していた。ランウェイ、と言っても、ステージ中央にセットした階段からレッドカーペットを伸ばしただけなのだけど、それを目にしたらもう一気に。

 そんなステージ前では吹奏楽部が準備を進めていた。木管楽器を携えた人たちが着席し、音出しを始める。柔らかなクラリネットに、伸びやかなフルートの音階。アルトサックスの艶めいた音、さらに色気を増すテナー、バリトンの芯に響く低音。行き交う音色が、開演の高揚をこれでもかとあおる。

「大丈夫?遥」

「…あんまり大丈夫じゃない」

 隣で紗奈ちゃんが背中をさすってくれる。美冬ちゃんは、ギリギリまで衣装や舞台演出の詰めをするらしく、発表会は見られないそうだ。

 被服部のスタンバイは十一時半、演目開始は四十分から。支度があるので三つ前の演目が始まる頃には席を立たなければいけない。私の出番の演出上、時間は押すのも巻くのも許されない。それは私の努力だけではどうしようもないことだけど。

 私は頭の中でリハーサルの内容を反芻する。

「…幕が降りたら中央に並んで…幕が上がったら階段を降りて…靴を…」

「遥、声に出てるって」

 楽しみに取っておきたいからネタバレしないでよ、と紗奈ちゃんは言うけど、出ちゃうんだもん。

「…もう、全部出そう…」

「うわっ、ちょっと、しっかり!」

 ブザーが鳴ると同時、ざわめきは次第に止んでいく。そして昇っていく幕とすれ違うようにして現れた、金管楽器の煌びやかなるを、ぐったりしたまま私はなんとか視界に収めた。




 演目は順調に進んでいった。書道部と美術部がコラボしたライブペインティング、文芸部の朗読、箏曲部の演奏。そしてダンス部の発表が始まる頃には私も、もう行かなければならなかった。

「もう時間?」

「…うん…」

「大丈夫だって、遥。こっからちゃんと見てるからね」

 頼もしい笑顔の紗奈ちゃんに、ごしごしごしっと背中へバレー部流の気合いを入れてもらい、

「うん、…行ってくる!」

 早くもすでに笑っている膝を振り出して、私は自席を後にする。




「ハルカ!」

 講堂出入口のガラス戸に手を掛けようとしたとき、後ろから呼ばれて振り返る。

「鷹矢くん…」

 小走りのまま私の横に来て、すっと扉を押してくれる。にこりと微笑って、その左手はどうぞの合図。

「…ありがとう」

「もしかして、緊張してる?」

 扉の閉まる音を背で聞いて、私たちは被服室へ急ぐ。

「…うん、かなり」

「あはは、僕も」

「そうは見えないけど…」

 疑いの眼差しで見上げると、やっぱりいつもと変わらない穏やかな表情。

「…だって、僕までガチガチになっちゃったら、ハルカをちゃんとエスコートできないだろう?」

 鷹矢くんは深く首を傾げた。そうしたら目の高さ近くに、その綺麗な瞳。だから私だけまた平静でいられなくなる。

「きょ、今日は頑張ろうね!」

 私はぐるんっと前を向いて、被服室の扉を開けた。




「乾さーん、モデルさんの髪、こんな感じでいーの?」

 私の髪をセットしてくれているのは、美容師を目指しているという二年生の毛利先輩だった。お家が美容院で、今日は特別にお父さんの商売道具を持参して駆けつけてくれた。コテの扱いが慣れていて、先輩自身もすごく複雑な髪型をしている。さすがの手捌きだった。

 先にヘアメイクを終えた鷹矢くんの衣装を調整していた美冬ちゃんが、パーティションの奥から急いでやってくる。

「はいっバッチリですーっ、さすが毛利先輩、ありがとうございますっ」

「ん、いっちょあがりー。頑張ってね」

 鏡越しにウィンクのエール。

「はいっ、ありがとうございます!」

 どきどきし過ぎて、知らず知らずのうちに私も美冬ちゃんのように声が弾む。先輩の姿が見切れると、目は自然と私自身に引き込まれる。

 頬をすべり落ちる幾筋ものふわふわの髪。くるんと編み込まれた長い髪が、頭の高い所で収束して、ちょうど良い重みを感じる。普段はヘアアレンジなんて滅多にしないから、引っ張られているような感覚がくすぐったくて、ちょっと落ち着かない。

 ゆるく横に流れた前髪に、上向いた睫毛がぶつかるのが分かる。「サービスね」と言って、先輩がメイクもしてくれたのだった。マスカラなんて初めてつけた。少し重たい瞼、オレンジがキラキラ。瞬きするたび、魔法にかけられていくよう。

 控えめに潤んだ、ピーチ色のリップを人知れず震わせた。

 これは私じゃない。ここに映るのは、鏡の中にいるのは、

「…シンデレラ…」


「じゃっ、遥。衣装着よっかっ」

 美冬ちゃんの呼ぶ声に、吸い込まれそうだった私ははっとする。

 保健室から借りてきたパーティションをコの字型に組んだものが更衣室の代わりだった。その一角が空いて、美冬ちゃんが手招きしている。

「鷹矢くんの支度、終わったの?」

「ふふっ、ばっちりだよっ」

「先にちょっとだけ、見たいなぁ」

「だめだめっ、本番まで見せられないよっ」

「…演出上の都合?」

「そうそうっ。ちゃーんと覚えてるじゃんっ」

 実は、これまで一瞬たりとも鷹矢くんの王子様姿を拝めていない。本番に初めて顔を合わせたほうが、その感動が客席にも伝わるとかで。サイズ直しも小物合わせも全部、別日に設定されるという徹底ぶり。演出にも力を入れる、美冬ちゃんのこだわりだった。

「あー、緊張してきたぁ」

「遥は朝から緊張しっぱなしだねっ」

「責任重大だもん…」

「楽しんでくれればいいよっ」

「うん…」

「大丈夫っ、ステージで王子様に会えば、きっと最後の魔法にかかるからっ」

「え?」

「はいっできたっ」

 揺れる、淡いサックスブルー。完璧なAラインに散りばめられたスパンコールが眩しい。斜めに走る淡色のフリルは、きっと足を踏み出すたび跳ねる。

「…美冬ちゃん、」

 コルセットを縁取る銀糸、そこに折り重なるチュールレースは、ボーン沿いにもラインを強調するように。

 肩から胸元まで、ふくよかなオーガンジーが光沢を魅せて、今やもう飛び回るくらいに高鳴る私の鼓動をふわっと包んでくれている。

 美冬ちゃんの針仕事の、やさしくも生き生きとした息づかいを、感じる。

「これ…」

 思わず、振り返った。私が最後に見たのは、ドレスの素体だけだった。こんなに丁寧に、華やかに、ひとつひとつ輝きを飾るのに、一体どれだけの――。

「ふふっ、気に入ったっ?」

「すごい、美冬ちゃん、まるで、魔法使い…!」

「あははっ、驚くのはまだ早いよっ」

 そうして、更衣スペースを出て連れられた姿見の前には、靴があった。華奢で透明な、これは、まさか。

「ガラスの靴…っ?」

「…の代わりっ。さすがにガラス製という訳にはいかなくてねっ」

 美冬ちゃんはぴっと舌を出しながら、私の足元にその靴を揃えてくれる。既存のクリアパンプスに、可愛い飾りを誂えてくれたようだった。

「小物合わせには間に合わなかったんだけど、かえってサプライズになったかなっ?」

「…ありがとう、美冬ちゃん…!」

 ドレスだけ見ても本当に素晴らしいのに、ここまで気を配ってくれるのが、ただ嬉しかった。履くのが勿体ないけど、爪先からそろっと。さすがは美冬ちゃん。ピッタリだった。

「これで完璧にシンデレラだねっ」

 美冬ちゃんが、ティアラを差し込んでくれる。

「うん、…頑張るよ!」

「いつか必ず本物のガラスの靴、作ってみせるからっ!」

 仕上げにコルセットをしっかり締めながら、鏡に映る私に満面の笑みを向けてくれる。美冬ちゃんなら、本当に作れそうだなと、息苦しさすら心地よく感じながら、思った。




 舞台袖は犇めいていた。様々な衣装で華やかに着飾ったモデルさん達。豪華なものからシンプルなものまで、それぞれが被服部の皆さんの思いの結晶に違いなかった。

 こちらは下手側だけど、まっすぐ向こうに見える上手側も同じように、今か今かと出番を待っている。暗がりで姿までは見えないけど、彼も同じ、一番後ろで。

「それでは!いよいよラスト!被服部によるファッションショーの開幕です!」

 司会の合図で音楽が鳴り響く。刻まれる重低音より、鼓動は早く。鎮まる気配がないから、私は美冬ちゃんの言葉を思い出す。


 ――ステージで王子様に会えば、きっと最後の魔法にかかるから。


 信じるよ、美冬ちゃん。

 私はきゅっと、握った左手を胸に抱いた。


 始まってしまえば、出番はすぐに迫って来た。もう、前に並ぶこの人が歩き出せば、私もついにステージへ踏み出さなければならない。

「…3、2、1、ハイ」

 タイムキーパーは正確に腕を振り下ろす。それと同時に、彼女もまた胸を張り顎を引き、まっすぐ足を振り出した。

「いよいよだねっ」

 その姿を見届けていると、そっと後ろから肩を叩かれた。

「…美冬ちゃん!」

「リハの内容、頭入ってるっ?」

「…なんとか」

「ま、シンデレラは板付スタートだからねっ。真っ直ぐ歩いて、帰ってくるだけだよっ」

「…うん…!」

「大丈夫っ。待ちに待った王子様に会えるんだもんっ」

 なんて話している間に、最後のモデルさんが帰って来た。じわじわ降り始めた幕もついに、ぴったりステージの床に足をつける。

「ほらっ、お待ちかねだよっ」

「え、わ…!」

 ポンと送り出された、カーテンの内側。いつの間にか出現した、平面のお城の前。にこやかに佇んでいた彼が、完璧すぎて。

 一瞬、時をとめた。

「…こっちだよ」

 歪みひとつない白の衣装が、微笑みを何倍にも眩しくする。手招きしては揺れる、控えめなビショップスリーブ、カフスのブルーは私のドレスよりほんの少し深い。

 覚束ないステップで、引き合うように私はセンターラインの手前まで。ふわり広がるスカートが、彼のブーツを撫でるのにも気付けない。

「…すごく綺麗。前見て歩くの、もったいないや」

 顔が熱くて干上がりそうなのは、降り注ぐライトのせいだけじゃない。

「そ、それは、お化粧、してもらったから…」

 私は顔を上げられずに、彼の衣装の胸元に施された、美しい銀の刺繍ばかりを見ていた。それでも分かる、これ以上ないくらいの、やわらかく光かがやく王子様の笑顔。

「幕上がります!スタンバイ!」

 ぴくんと肩を跳ねる私に差し出されたのは、きちんと揃えた彼の指先。上品にたゆむ袖と、優しく弧を描く口元、ゆるやかに細めた両の瞳まですべて、この王子様が私の手を取り連れて行ってくれる。

「行こうか、シンデレラ」

 最後の魔法はあまりに強い。この笑顔をふりかけられただけで、私は本物のシンデレラになれる。

 ふわ、と羽根の上に立つ心地で、私は彼と、並んで前を向く。このお城で、手を取り合って。激しい鼓動と甘やかなメロディは、徐々に上がる幕と共にすぐ、歓声で聞こえなくなった。

「…シンデレラ」

 耳元で囁かれ、ドキリとすると同時に私は思い出す。そう、幕が上がりきったらスタート。短く息を吸って一歩、また一歩と、舞台を踏みしめるたびに、不思議と落ち着いていく気持ち。そして階段に差し掛かる頃、

 ――ゴーン、ゴーン…。

 時計の針が12を指したら鐘の音。魔法は、とける。だからこの手を離れ、私一人で歩いていく。ゆっくり階段を降り中腹で、片方の靴を脱いだ。そのまま前を向いて、まっすぐ、歩みを進める。

 ここまで来るともう、客席と同じ目線。照明もきつくないので、皆の顔が見え過ぎてまた、緊張がぶり返すかと思ったけど、なぜだか大丈夫な自分に驚いている。

 指を差してステージに注目する人がたくさん見えた。ガラスの靴を落としたことに、気づいてくれているのかも。だとしたら美冬ちゃんの演出はさすが、バッチリはまっている。

 ランウェイの先端に到着したら、ここでターン。音楽が切り替わり、王子様がガラスの靴を持ってやって来るのを待つ。そのはずだった。

「…っ?」

 ステージに向き直っても、王子様がいない。ガラスの靴もそのまま。何が起きたのだろう。トラブル?でもそう言えば皆、ステージをずっと指差して――。

「脱いで、それ。ハルカ」

「えっ!?」

 ふいに後ろから声。つい、本番中であることを忘れて無造作に振り返る。

 なんで、どうして、いつの間に。

「俺に何させてんだよ、あいつ…」

 よりにもよって、こんな時に。

 ぶちぶち不満を募らせ、私の背後に突如として現れた、

「タカヤくん…っ!」

 暴君。

 ざわめきは最高潮に達した。消えた王子様が気づけば、シンデレラと一緒にいるのだから。どこからともなく拍手まで沸き起こる。ファッションショーがマジックショーの様相を呈した瞬間だった。

 ただ、このハプニングはただのそれでは済みそうにない。

「ハルカはそんなの着ないだろ。俺だってこんなのはごめんだ。だから早く」

 そう言いながら、自分の白い衣装に手を掛ける。

「何言って…!」

 だけど脱ぎ方がいまいち解らずに、タカヤくんはまごついていた。業を煮やして無理に引っ張ろうとするから、私も声を荒らげる。

「待って!美冬ちゃんがせっかく作ってくれたんだから!」

「みふゆ…?ああ、友達な…」

 そこでかろうじて手を止めた。少し罰が悪そうに、握っていた皺を伸ばすように撫でる。

「…はー、そうだよな。ハルカは、友達の頼みは絶対、断らない…」

 彼の頭の中のせめぎ合いを表すように、頬をぴくぴくさせながらこうべを垂れる。

 そうだ。なんとしても、このレッドカーペットの上に立ってもらわなければ。

「うん、断らない。だから、ね。一緒に行こう?」

 しばしの間の後、大きな溜め息。

「ったく。…どうなっても知らないからな」

「…えっ?」

 眼前を、不機嫌な彼の表情が占めたかと思うと、

「えっ!?」

 天井の照明が目に染みる。どよめきと歓声が流れ込む。

 私の肩を丸ごとおさめる手は少し熱くて、

「来た道戻って、はけたらいいんだろ?」

 私の脚を束ねる腕は有無を言わせない。

「な、な!」

 ふふんと上から笑って見せる暴君は、大観衆の間を海割りのように堂々と歩き出す。

「なんだよ、不満?」

「段取りが、違う…っ!」

「不満とは言わないんだ」

 そう言って、睫毛を寝かせて流し目。意地悪く笑う彼が、悔しいけどなんだか少し可愛くて、やっぱり格好良くて、だから何も言えなくて、鷹矢くんのときには絶対見ることのない表情に、いつもと違うどきどきを感じてしまって。

「靴が片方だと歩きづらいだろ。配慮だよ。俺の優しさ」

「…こんな目立つやり方、優しくないっ!」

 ばたつかせた足から、ぽろん。深紅のカーペットの真ん中に、零れた涙のように。残された、片っぽのガラスの靴。

「お気に召しませんか、お姫様シンデレラ?」

 そう言ってぎゅっと、私を抱える両腕に、ひと掬いの慈しみを込められた気がして。その自信たっぷりの笑顔に私は、

「反則よ…」

 ついに抗うことを断念した。


 だから晴れて両方裸足になってもずっと、彼の強引な腕の中に閉じ込められたまま、お城の向こうに消えるまで。拍手も歓声も、自分の鼓動で何一つ聞こえなかった。




 後日聞くところによると、あのとき私が落としていったガラスの靴は、花嫁のブーケトスさながら、ショーの後で壮絶な奪い合いが繰り広げられた、らしい。

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