第5話 豹変ヴァンパイア

 ――引き受けてしまった。


 放課後は、出し物について最終決定のための話し合いがあり、いつもより帰りが遅くなっていた。暮れなずむ空を背負いながら、私は一足一足アスファルトを踏みしめる。ほのかに覗くオレンジに、そっと励まされながら。


 委員長が体育館使用権を懸けた激戦に敗れ、私たちは教室内でできる模擬店に限られることとなる。結構全力で鷹矢くんを借りるつもりだった紗奈ちゃんと他の女の子たちは、こっそり残念がっているようだった。私はと言えば、その影でもっとひっそり、胸を撫で下ろしていた。

 ただでさえ、被服部のショーに出ることになったのだ。それも――




「じゃーんっ!」

 美冬ちゃんが見せてくれたデザイン画は、やっぱり王子様とシンデレラの衣装だった。

「わあ、すごい。乾さん上手だね」

 感嘆しきりの鷹矢くんへ、美冬ちゃんはどうぞとスケッチブックを手に取らせる。平和な笑みを浮かべる彼に、つい和みそうになるけれど、ここで私までぽうっとするわけにはいかなかった。ふるふると、頬の薄紅を追い払う。

「鷹矢くん、感心してる場合じゃないよ。これをね、私たち…」

「そうっ、着てくれるっ?」

 出た。美冬ちゃんの、星屑の瞳。

「僕が?」

「うんっ、遥と一緒にっ」

「…ハルカも着るの?」

 ちょっと待って。キラッキラが伝染ってない?鷹矢くんまで、その笑顔で、だめ!私を見ないで!

「わ、私は…!」

 両手を翳して防ごうとするけど、

「そっかぁ、見たいな」

 何の意味も成さなかった。

「…ええっ!?」

 眩しい笑顔だけでも手に終えないのに、期待の眼差しまでそこに乗せられたら、私ははっきりノーなんて言えなくて。

「じゃあ決まりねっ」

「ま、待って美冬ちゃん、私そんな大役…!」

「安心してっ!とびっきりの衣装作って、絶対トリの枠勝ち取るからっ!」

「余計にプレッシャーだよー!」

 えんえんと首を横に振る私には取り合わず、美冬ちゃんは散らばった鉛筆をペンケースに収めていく。

「じゃっ、遥のドレス、早速取り掛かっちゃおっかなっ」

「えっ?採寸は…」

 よいしょっと荷物をまとめて立ち上がると、美冬ちゃんは「最高に満足」と書いてある笑顔で恐ろしいことを言った。

「遥のは大丈夫っ!さっきの体育で、最後のパーツも採れたしっ!」

「え…?」

「じゃあっ、お邪魔しましたーっ!」

 色とりどりの音符を撒き散らしながら、美冬ちゃんはるんるんと走り去っていく。激しい虹色の嵐だった。

「…ハルカ、いつの間に採寸受けてたの?」

 その後ろ姿へ手を振っていた鷹矢くんは、わなわなと震える私を見て目を丸くする。

「ま、まさか…」

 三限目の体育の前、着替えの最中に後ろから、掴まれた。両方とも。え、あれで?

 私が自分の胸に目を落としていると、

「ハルカ?」

「わっ、あ、本当!いつの間に…」

 すぐ耳元で呼ばれて、弾かれるように横へ顔を向けたら、不思議そうに微笑む鷹矢くんと目が合って、

「顔、赤いよ?」

 やっぱり格好良くて、

「なんでもないよ!」

 またひとつ、頬の赤の、理由が増えた。




 あの後美冬ちゃんを問い詰めたら、サイズは日頃から何気ない場面でこっそりと測っていたらしい。ヒップは、この間スカートの折り目を整える振りをして。油断も隙も無駄もない。おそるべし、美冬ちゃん。

「はあー」

 くんっと空を見上げたら、橙に照らされ頬を染めた雲がもじもじ。その背中を追うように、夕焼けがとことこ歩いてくる。

「鷹矢くんの、王子様…」

 その身ひとつでもう完璧な王子様なのに、それ以上どうなっちゃうんだろう。美冬ちゃんの衣装を着た姿を夕空に浮かべるだけで胸がいっぱいになる。それで隣を歩くなんて、本当にできるのかな、私。手と足が一緒に出てしまう自信だけはある。

 私のどきどきが高まるたび、ついに走り出したオレンジが群青を追い上げる。お隣のインターホンを押す頃には、辺りはすっかり暮れ色に染め上げられていた。




 クラスの模擬店は、なるべく重複するものがないように、希望と照らし合わせながら委員会で最終決定された。やっぱりそれも上級生から優先されていくものらしく、一年生のクラスは隙間産業的なものが目立つ。一番当たりだと言われているのは、

「六組いいなー、希望通り?」

「らしいよ、二年生にホラーハウスやるクラスがあるから、負けないようにすっごいの創るって意気込んでた」

 鷹矢くんのクラス。「お化け屋敷」の希望がそのまま通ったらしい。ホラーハウスとの違いについては私はよく分からない。同じ物のように思えるけど、三学年合わせて二十四クラスもあるのだ、ひとつくらいは被っても良いということかな。

「業者さんとの最終打ち合わせ終わったよ!」

「お疲れー!」

「とうとう来たって感じだね!」

「こっちもいい感じ!乾さんのセンスやばい」

 私たち一年五組は、金魚すくいのお店を出すことになった。縁日と言うとさすがにざっくりすぎるので、何かひとつに絞ろうという話になったとき、輪投げや射的の希望を出していたクラスから、「縁日だったら何でもいいんだよね?」という論理で押し切られてしまったらしい。委員長は何度も頭を下げていたけど、「一番縁日らしくていいじゃん」と、クラスの皆も大賛成だった。


 美術総監督の美冬ちゃんの指揮の下、準備は着々と進められ、いよいよ本番の明日に向けてラストスパート。

「林堂くん、コレつけてよ」

「あ?何、てっぺんのやつ?」

「そうそう」

 教室入り口に飾る、金魚のオブジェが出来上がったみたいだ。女の子5人がかりの力作。それを看板の上に取り付ける予定だった。

 丁度入り口にて脚立の上で作業していた湊人が、わっさと金魚を受け取る。万一落ちても危なくないように、新聞紙と綿と布、仕上げのハードチュールだけで作ってあるけど、軽いとは言え結構大きいので扱いに苦慮している様子。

「でかっ…」

「あれ、大きすぎた?デザイン案的にこれくらいかなって」

「気を付けてよね!壊れやすいから」

「んな事言ったって…」

 一面薄い水色に塗られた板に、透け感のある濃淡さまざまなブルーの布をねじりながら貼り付けた、水槽をイメージした看板。あとはここにフェルトで作った「金魚すくい」の文字と、カラフルな飾りを乗せていく。その仕上げにドンと真っ赤なこの金魚。目を引くこと、間違いなし。

「看板まだ出来てねーし、最後のが良くね?」

「いいから試しにつけてみてよ」

「…人使い荒えな…」

 女の子の圧に渋々、湊人は脚立をもう一段上がる。すでに入り口の扉は全て取り外されていた。上窓を全部開けて剥き出しにした柱へ、オブジェに予めつけられていた紐を結んで固定したい、のだけど。

「…くそ、これ、腕回んね…」

 大きな金魚を御しきれない。

「はーい!ちょっと通りまーす!よけてよけてー」

 そうして手間取る湊人にアクシデント。

「え、ちょ、わ!」

 組み立てられた大きな屋台が廊下を通り抜けようとして、脚立の足元を誰かがガツンと蹴ってしまう。当然バランスは崩れ、

「湊人!」

 くしゃっ。

 私が声を上げるより早く、自力で落ちずに済んだまでは、良かったんだけど。

「おい林堂…何やってんだよ」

 湊人はどうにか耐えている。柱をぎゅんむっと抱きかかえ、華奢な金魚ごと。

「おまっ!…」

 思わずクラス中が注目した。ぷすっと誰かが噴き出すと、くすくすくすと笑い声は一気に伝播していく。

 だって、湊人ってば、

「おーい!林堂が金魚とちゅーしてんぞー!」

「ぶはっ!してねえッ!!」

 思いっ切り金魚のぷっくり唇に顔をうずめている。

「あっはは、ばっちりおさめちゃった!」

 けたけた笑いながらスマホを顔の横で揺らすクラスメイトを、湊人が睨み付ける。

「消せ!今すぐ!」

「やだー、写真部のコンテストに応募するもん」

「やめろ!マジで!」

 でも反対側、教室内から援護射撃。

「え、何。林堂、初ちゅー?なあ初ちゅー?」

「うっせー!だからしてねえッ!」

 私の知る限り、湊人はその、まだのはずだ。ただ私がここで言ってしまうのも、それはそれで彼の尊厳にかかわると思うから黙っておく。

 必死でまくし立てるその顔は、金魚に負けないくらいに真っ赤だった。

「…とりあえず、降りたら?」

 とは言ったものの、頭に血が上っている湊人へは、聞こえるはずもなかった。




「わあ、紗奈ちゃん可愛い!」

「やめてよ、ガラじゃないし…」

 屋台、看板製作と並行して、案内スタッフの衣装合わせも行われていた。交代しやすいように、既存の服に美冬ちゃん特製パーツを取り付けていく仕組み。女の子は朱い甚平、男の子は黒い甚平で、それぞれ小赤と黒出目金をモチーフにしたデザインを目指す。女の子用の衣装パーツは今、紗奈ちゃんがモデルとなって、美冬ちゃんがあちこち手直しをしている。

「紗奈はばっちりモデル体型だからねっ、本当仕事のし甲斐があるよっ」

 山吹色のシフォンの上に、葉型に切り抜いた朱色のソフトチュールを幾つか重ねていく。それを大胆かつランダムにレイアウト。ふわり、ひらりと奥行きの綺麗な、金魚のヒレを模したスカートになる。

「そういうのいいから…まだー?」

「うんっ、バランス取れてきた!スカートはよしっ」

「えっ、まだあるの?」

「あとは袖と、カチューシャもっ」

「ちょっと休ませてよ…」

 げっそりする紗奈ちゃんの横でくすりと笑っていたら、

「キャーッ!!!」

 思わず肩も上擦る衝撃波。

 隣のクラスから悲鳴とも歓声とも取れるものすごい声が聞こえてきた。

「すっごい声…」

「何っ?王子案件っ?」

「王子のクラス、お化け屋敷でしょ?喜ばせてどうすんのよ」

 どうやら紗奈ちゃんには歓声に聞こえたらしい。私も皆の後ろから、廊下を覗いて見てみると、

「蓮未くん似合う~!」

「王子は悪堕ちしても、やっぱり王子!」

「…!」

 息を飲んだ。それを手で覆う。人垣の合間から見える妖しくも綺麗な装い。私は黄色い声に混じることはできなかった。

 だって、反則だもん。

「あ、ハルカ!」

 なんでそんなに格好良いの。そわそわきょろきょろ、つい挙動もおかしくなってしまう。やっぱり鷹矢くんはファンタジーの住人なんだ。

 所々ほつれ加工をした純白の浴衣に、エンジの帯を幾つも、無造作に締めている。それがまるで血を垂らしているようなおどろおどろしさ。その上にさらに、あらゆる光を寄せ付けない墨一色の着物を羽織って。仕上げに、いつもの王子スマイルに牙がプラスされれば、誰かの言っていた、悪堕ち王子の完成だった。

「どうかな?和風吸血鬼らしいんだけど」

 もう鷹矢くんがそうして入り口に立っているだけで、抜群の集客力を誇るんだろうな。さすがは王子様。この上なく強力な商売敵だ。

「う、…うん、似合ってる…とても」

 着物を引き摺りながら、私のほうへ歩いてくる妖艶な姿。なんだか目を合わせられない。こんな鷹矢くんの、その瞳を見たら、その瞬間固まってしまいそうで。

「本当?全然見てくれないけど」

 彼は首を傾げるように背を落として、俯き加減の私の視界を占領する。

「ひゃ!」

「あははっ」

 面白がっているけれど、その笑顔が一層私の色々なものを奪うこと、彼は分かっているのかな。

「やっぱり怖い?これ」

 違う、そんなに綺麗な顔で近づかれたら、私。

「あとね、これに赤い数珠のネックレスをつけて、着物も派手に血糊で汚すらしいんだ、勿体無いよね」

 そう言ってたゆませた袖ごと、ふっと両手を広げてみせる。ラインに寄り添う衣装は、いつものブレザーよりずっと、引き締まった姿を浮き彫りにする。うわ、腰、細い。

「ハルカ?」

「えっあっ!」

 やっぱり硬直していたみたいだ。恐ろしげな黒い着物を纏っていても、やわらかな栗色の瞳で紡がれる眼差しはどこまでもやさしくて澄んでいて、つい、文化祭準備に沸く賑やかな往来のことも忘れて、

「すごくっ、あのっ、格好いいよ!」

 身体の内側の熱が我慢の限界で、思いの丈を大々的に発散してしまった。響くエコー、廊下のずっとずっと向こうまで。

「ハルカ…」

 少し驚いたような、目の前の鷹矢くんの表情に、恥ずかしさは急速に膨らんだ。私はもう下を向くしか無かった。

「わわ、白昼堂々!」

「さすがシンデレラ。誰よりも気持ちこもってたね!」

「何このにやにや劇場!」

 ただでさえ準備で浮かれ満ちていた廊下の活気は一気に増長、溢れんばかりになる。わあっと爆発、会話もままならないほどに。

 でも不思議。鷹矢くんの吐息だけは聞こえるの。そう思ったら、もう、彼の朽葉色の髪は私の頬を掠めていて、

「ありがとう…すごく嬉しい」

 耳に直接届けられたのは、ほんのり色づいた、鷹矢くんの囁き。

「は…わっ…!」

 湊人のことを馬鹿になんてできない。きっと私のほうが金魚色だった。もっと、もっと。比べ物にならないくらい。

「……」

 ふわりと一辻、何かがパチン。

 温度が変わったように感じるのは、私の身体が熱いせいかな。

「…ん、」

 違う。開け放たれた窓からは、こんな下から掬う風、入ってくるはずがない。

「何これ。血吸っていいってこと?」

「…え?」

 おもむろにその腕が、私の肩ごと、頭を抱く。ぐっと目の前を覆い尽くすは彼の漆黒。押し付けられる体温と、近いのに遠い皆の悲鳴。

「ていうか、昼間からヴァンパイアって、ありなの?」

 流れるように。人差し指から小指までが、輪郭を這い私の髪をさらっていく。露になる頬、耳。

「…まさか…っ」

 三十七度の吐息。

 私の耳たぶに触れる唇が、にやりと笑った、気がした。

 ――間違いない。この人は――

「まいっか」

 手指が首筋を伝い降りて、一瞬だけの呼吸をする。

「じゃ、いただきます。……」

 ――王子様鷹矢くんじゃない、暴君タカヤくん

「待っ…タカヤく…!」


 ばっさ。


 赤。

 一転、私の視界は塗り替えられる。

「……」

 ふぁさ。足元に、風のような感触。

 そして開けた。他のクラスの子たちもたくさん、固唾を飲んで一点を見つめる。私たちのことを。

 黒から赤へと目まぐるしいこの状況に、されるがまま立ちすくんでいた私の片耳を、聞きなれた怒号がつんざいた。

「…このエセ王子!時と場所くれー選べねぇのか!」

 首を横に回すと、スローイングを終えたままの体勢で、湊人がこちらを睨んでいた。

 見たことない、顔だった。

 解放された髪がさらり、彼と私とを寸断する。そして私を抱き締めていた体温はゆっくりと剥がれ、

「…ごめん、ハルカ」

 目の前で、眉を下げて詫びるのは、いつもの鷹矢くんだった。

「…林堂くんも」

 ただその後、一瞬だけ湊人と視線を交錯させた彼の中に、ほんの少しだけタカヤくんを見た。

 彼の横面を弾いた、この足元に寝そべる金魚も、きっと見たに違いない。




 華やかな飾りで満ちた一年五組。あとは明日の本番を待つのみだ。すっかり陽は落ち、紺碧の窓を臨みながら煌々と照らされた教室にいるのは、なんだか悪いことをしているみたいでちょっと心地良い。新鮮なシチュエーションに、離れがたいのは皆一緒のようだった。この熱気を余すことなく味わいたいから。年に一度のイベントだもの。

「にしても王子って意外に情熱的なのね」

 帰り支度はとっくに済ませているはずの紗奈ちゃんも、鞄を持とうとはしなかった。

「いっつもああなのっ?」

 ただ話題はやっぱり昼間のあの一件で。どう誤魔化したものかと、ハムスターが回し車をそうするみたいに全速力で頭を回す。けれど私はもう、ばてそうだ。

「まさか!まだ、二回目だよ…」

 そう、タカヤくんに会うのは。告白大会のあった放課後以来。

「え、もうすでにあんな感じで迫られてんの?」

「違っ!そういう意味じゃ…!」

「まあそろそろひと月だもんねー、そりゃ進んでるか」

「だから違うってば!」

「あははっ、照れない照れないっ。紗奈もそんなコト、訊いちゃだめだよーっ」

「美冬だって訊いてんじゃん」


 絶対皆におかしいと思われた。あれだけの大勢の前でタカヤくんに、あんな、あんな――

 ――…ハルカ

 強引な吐息が、今も耳に染みついて離れない。火傷みたいにじんじん、ひりひり、冷たい手でくるんでも、余計に熱を感じるばかり。


 タカヤくんのこと、これから先、無事に隠しおおせるだろうか。王子はたまに暴君になりますなんて、うまく説明できるはずない。それこそファンから嘆きの悲鳴が上がりかねない。

「はー…」

 いつ顔を出すかも分からない、めちゃくちゃで傍若無人なタカヤくん。それでもしっかり向き合わないと。私は彼のためのハルカなのだから。

 だけどそのたび、突き破りそうな鼓動を連れてくるから、

「あれじゃ遥の身がもたないんじゃない?」

「愛されるって幸せだねっ」

 私の継恋は、前途多難だ。

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