世界に執着しない君が愛着する制服と癒着による征服
火星七乙
第1話
目が覚めるとクリーム色の楕円が見えた。何度か瞬きすると楕円は細く小さくなっていき、濁っていた色も刺すような青白い色に変わる。
目尻がつっぱる感覚がして、周囲の皮膚が振動する度に、ぺりぺりと糊のようなものが剥がれていく。どうやら、眼球にへばりついた膿越しに天井の蛍光灯を見たらしかった。もう一度瞬きをすると、今度は天井がピンク色に見える。
血だろうか。
そう思った瞬間、遠ざかっていた痛みが波のように身体を襲い、私は狭まった喉から悲鳴を上げた。私の壊れた笛のような悲鳴に気づいたのか、看護師の甲高い声が聞こえる。ナース服を着た深緑色のもやは、眼球にまとわりつく浸出液越しでもよく見えた。
深緑は私の頭上で腕のようなものをくねらせて何かをしている。枕元に主治医がいたことに今気づく。ふかふかの長毛に覆われた医者は、子供が抱えられるテディベアくらいの大きさしかない。
医者と看護師があわてる様を見て、私の痛みの進行が少しだけ止まる。まき散らした血もじきに消えるだろう。
私の身体、というより、この国中の人間の「肉体」がおかしくなったのは、一年ほど前からだった。
ある日、新宿の某精神科に妙な患者が訪れたらしい。患者曰く、「人間が奇妙な形に見える」ということだった。目に映る人間、鏡の中の自分を含めたそのすべてが、口から手足を吐き続ける魚やら、その魚に水を与え続ける厚みがない影やら、天空まで成長し続け頭が見えなくなった瞬間に米粒大まで縮んでまた伸びていく赤鬼やらに見えるという。ただの幻視と違ったのは、患者は自分の視覚情報の通りに人間に触れ、その声を聞くということだった。魚人間に触れると冷たいうろこの上のぬるぬるした粘液がいつまでも手に残り、影の声は聞こえないままその質量には触れられず、赤鬼の声は地面を震わせるほど低く恐ろしいのだと患者は泣いて訴えた。これらの例は、それぞれ患者の妹と父と母らしいのだが。
精神科医は問診や身体検査や心理テストの末、統合失調症か妄想症か不思議の国のアリス症候群か、とにかく既存の何かしらの病に分類して投薬治療で経過観察したらしい。
ところが、その患者の症状が回復しないばかりか、全く同じ症状を訴える患者が次々とやってきた。患者はその精神病院だけにとどまらず、新宿近辺の精神科、脳神経科に広がっていった。患者の家族、知人、そして患者を診た医者や看護師も次々と同じ症状に悩まされた。いくら身体を調べても、脳の一部が異常に活性化していること以外は、何も分からなかった。
当たり前だったはずの日常の終わりは唐突にやってきた。感染性の未知のウイルスが脳に影響しているのかもしれない。そんな仮説が立てられ、メディアで一斉報道されてから、ひと月も経たずほとんどの日本人がそれに罹患した。今まで東京近辺でしか例のなかったその症状が日本中のあちこちに現れ始めた光景は、まるで「意識してしまったら症状が現れる」集団ヒステリーのようだった。しかし、この狂った症状はまたもやただの集団ヒステリーとは一線を画していた。症状が発現した人間同士は、世界に同じ混沌を見る。要するに、その幻覚は患者同士で共通であり、たとえば、百人に過去の国会中継を見せ、「画面最前列の左から三番目の人間はどんな姿をしているか」と問えば、百人がまったく同じ答えを返すのだ。「カタツムリみたいに飛び出た目玉についた口で喋る九官鳥」と。
もはや、それは「幻覚」ではなく「現実」になった。国は崩壊するかと思われた。しかし驚いたことに、一時的な混乱はあったものの、人々はその姿のまま今まで通り生活をし始めたのである。医者は医者として、看護師は看護師として、国会議員は国会議員として。言葉が通じない者、人の手助けを要する者、それぞれ工夫が必要だったが、なぜか暮らしも経済も回った。国外も同様。まるで、初めからそんな世界だったかのように。
「椎名」
替えられた点滴のせいかぼんやりとしている私の名を、いつの間にかベッド横のいすに腰掛けていた公君が呼んだ。死んだ父がつけた、誰かの苗字のような私のファーストネーム。
「辛い? 遅くなってごめん」
公君は、私が知っている「正しい人間」の姿をしている。バター色の皮膚に清潔で短い黒髪、五本指の手足を持った、同級生の恋人の姿。世界がおかしくなる前にみんなが見ていた、霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科、健康なホモ・サピエンス。
公君はすっかり私の血を吸った病院のシーツに動じることなく手を伸ばして、私の「残った」左手を握り、もう片方の手で私のただれた目元に触れ、体温を浸透させるようにじっと動きを止めた。公君のなめらかな手のひらに私のピンク色の真皮が吸いつくように合わさると、少しだけ痛みが治まる。
私を悩ませる身体のただれは、公君が触れると徐々に治っていく。手が離れるとまたただれ始めるので、今のところ対処療法でしかないのだが。あの日消えた手足は生えてこないし。
公君が私の左手から一旦手をバリッと離すと、さっきより若干よくなった皮膚が見えた。しかし、皮膚は空気に触れると変質する薬品みたいに、再び赤みを帯びていく。治りきる前に肌を確認するのはやめてって言ってるのに。私が眉をしかめたのに気がついたのか、公君は「ゴメン」とつぶやいて、困ったように笑う。公君は、肌を離される痛みを知らないからのん気なものだ。もっとも、私もこの痛みには慣れてしまっているのだが。
「今日も相も変わらず同じ質問ばかりだったよ。『なぜ君だけ人間の姿でいられるのか、心当たりはないか』ってことを手を替え品を替え。一年前によく食べていた物を聞かれたのには困った。覚えてないっての。『食べ物の何らかの成分が影響してるのかもしれない』、とか真面目な顔して言い始めるから笑いそうになったよ。手がかりがなさすぎるんだろうな。いや、白々しいというべきか」
公君は目を閉じたまま、濡れた羽のようにしっとりした声で軽口を叩いた。私は脂汗が滲む痛みが少しだけ引いていくのを感じながら、指の隙間から公君の見慣れた顔を眺めた。端正とは言い難いけれど、どこか愛嬌のある憎めない顔。私に身を寄せる仕草はさながら、病弱な少女に思いを馳せる心優しい少年のよう。以前は美女と野獣なんて言われて、「公君は可愛い顔をしてるのに」なんてフォローしたことがあったけれど、今では真逆になってしまった。
この国にはもう、元々の人間の姿を知覚できる人間はいない。公君だってそうだ。公君は例の幻覚を発症していないから元の姿をしているわけではない。第一、幻覚を発症した人間は、相手が幻覚を発症していようがいまいがすべての人間が奇怪な姿に見える。最初の患者――今は患者という扱われ方すらされていないが――がそうだったように。
その中で公君は唯一、私たちと同じ異類異形がのさばる悪夢を見ながらも、それが蔓延する前の姿でいられた、いわばこの国の希望の男子高校生というわけである。
研究者たちがこの大学病院に囲うわけだ。
人間の姿をしている日本人は他にもたくさんいる。しかし、完全に「元の」人間の姿をしているのは公君だけだった。中には姿が徐々に変化し、少しだけマシになっていく例もあったが、それでも元の姿にはほど遠かった。頭が二つになった小学生、強烈な醜女になった元美女、関節の一切が鉄のように固まって動けなくなった体操選手。
そして、両脚と利き腕をなくし、全身がひとりでにただれていく女子高生。これは私のことだ。
私は片腕で這うようにしか進めないから学校にも行けないし、毎日狂ったようにしていた勉強も思うようにできない、というか、それどころではない。手足の欠損は痛まないからまあいいとして、どこかの皮膚がずるずると剥けていく痛みは耐えがたかった。声だって、こうして公君といるときじゃないと出したくない。
「そんなこと言ってないで、ちゃんと協力してあげてよ……」
みんな困っているのに、そんなニュアンスで、しつこい身体検査や問診について愚痴を言うのん気な恋人をたしなめる。
この人はもともとのん気だったけれど、それでも人が困っていたら手を差し伸べるような男だと思っていたのだが。
「だって誰も困ってないじゃん」
それはそうだが。今日も世界は回っているが。しかし。
「私がこんな目に遭ってるのに?」
怒ったわけではない。純粋に疑問だったので聞いた。
「俺にはもともとそう見えてたよ。椎名はもともとそんな身体だった。まあ、これは比喩だけど」
内容に反して、公君の声は温かい。私の目元の皮膚が肌色になったのを確認して、頬に添え直す手も。今日はただれの範囲が少ない。久しぶりに落ち着いた頭でよく考えてみれば、私の皮膚が治ってるかどうかなんて手を退けてみないと分からないな。今まで理不尽なことを言っていた。でも、公君は一度だって言い返さなかった。この人はそういう人だ。
公君が何を言っても、私は落ち着いていられる。公君からは何の悪意も感じない。私をむやみに傷つけることは絶対に言わない。
公君の柔らかい髪が近づいてくる。真綿のように優しい声で、内緒の話。
「正直、俺だけ人間の姿な理由も、見当ついてる。誰にも教えてあげてないけど」
公園に子猫がいるんだ、二人だけの秘密だよ。そんなことを言うような声色で告白された。顔をこちらに見せた公君は、やっぱりいつものようにほほ笑んでいた。
私は、「じゃあ何で医者に言わないの」とは言わなかった。正直、私は自分の痛みが治まること以外に、あまり興味がない。だから公君が私のことを「もともとそんな身体だった」と言うなら、血眼になって問うても仕方がない。
「何も聞かないんだ。椎名に俺の考察を聞いて欲しかったのに」
「看護師がこっちに近づいてきてる」
私が早口で言うと、公君は後ろを振り返って、「あぶねー」と小声で言った。公君を呼びに来たのだろう。
看護師と二言三言話した後に、公君が私の頬から手をベリッと剥がす。痛い。うらめしそうな顔をした私に、公君がやっぱり「ゴメン」と言う。
私も連れてってくれたらいいのに。移動式ベッドかなんかにして。けれど、私の体質も観察対象なんだから、仕方がない。天井と壁の間に取り付けられたカメラは、この病室で一番黒く禍々しい。まさか音声もとっていないだろうな。ちょっと心配になる。
私の心配をよそに、公君がベッド横の椅子から腰を上げながら、声も潜めずに言った。
「椎名も見当ついてるんじゃないの」
私がこんな身体になった日のことを、ぶり返した痛みの中で何度も思い出す。
あれは九月の最後の日だった。私は公君の家の前で、公君に預かってもらっていた冬服のセーラー服を受け取っていた。
なぜ、冬服を受け取っていたのかと問われれば、翌日から学校で衣替えがあるからだ。
なぜ、彼氏の家に自分のセーラー服があるのかと問われれば、私の登校中の秘密について話さなければならない。
ちなみに、決して公君が制服フェチの変態なわけではない。
私は制服を二種類持っていた。無論、夏服と冬服とかいう話ではない。
毛羽立ってヨレヨレになった小汚い制服と、公君が友人のツテで入手してくれた綺麗な制服の二つだ。
私は毎朝、みすぼらしいボロボロの制服を着て家を出て、通学路の途中にある公園のトイレに寄る。そこで、スクールバッグに隠しておいた綺麗な制服に着替えるのだ。スクールバッグの容量には限界があるので、本来そこに入れるべき教科書類はすべて置き勉である。いつか、優等生と言われる私が置き勉をしていることをクラスメイトが意外がっていたので、「鞄にはその日に読みたい本を入れたくて」と苦しい言い訳をしたことがあった。クラスメイトは「頭のいい人は違うなあ」とか茶化しつつも、納得してくれたのでほっとしたものだ。
話を戻そう。とにかく、私は毎日公園のアンモニア臭がする和式トイレの個室で、制服のすそに汚物をつけないように気をつけながら着替えるのが日課だった。制服から制服に。まったく同じデザインの学校指定のセーラー服だが、その見た目には天と地ほどの差があった。着てきたボロの制服を鞄に押し込みながら、毎朝唇を噛みしめていたと思う。重厚なはずの黒色は毛羽立って煤のようだったし、しっとりしていたはずの生地は汁をこぼして放っておいたみたいにテカテカだった。
母は、私が自分より幸せになることが気にくわなかったのだと思う。
そして、いつまでも母でなく女なのだ。父を私に奪われるとか喚いて、小学校に上がる前の私をぶっていたくらいだから。まあ、父は私にではなく、アルコールという死神に奪われたのだが。
もともとあった制服は、そんな母の嫉妬によって無残な姿にされた。
そもそも私は、制服と、母のお下がりの趣味の悪い一着の服しか着ることを許されていなかった。下着については話したくないので省略する。
服なんて着られればいい。髪をそんな風に結うな。制服は着崩すな。化粧は絶対にするな。色気づきやがって。まったく似合ってない。みっともない。そんな口実で、年齢が上がるごとに私への規則が増えた。母は私に人権があることを忘れているんだと思う。
酔った母に、眉間にタバコを押し付けられそうになったこともあった。そのときは、母のガラの悪い彼氏がドン引きした顔を母に向けたので助かった。この男は以前、私に「脱げ」と迫り、諦観の塊の私が脱ごうとした現場を母に見つかって、「冗談で言ったのに本当に脱ごうとしやがって、売春でもしてんじゃねえの」とクソみたいな言い訳をして、私をえらい目に遭わせたことがあったけれど、このときばかりは感謝の言葉を述べた。心の中で、だけど。
母の外面は悪くなかったし、その頃にはもうあざができるほどぶたれていなかったので、助けを求めて保護されることは頭になかった。学校に通わせてもらっているし、母の機嫌がいいときに「私は貧乏すると思うけど、迷惑はかけないから」と自立の話を持ちかければ、高校卒業後にはここを脱出できるかもしれない。奨学金を借りて大学にだって行けるかもしれない。そんな希望を持っていたこともあって、私はなるべく身なりを清潔にして、負けるものかと必死に勉強をした。
心が擦り切れそうだった。
ノートには私の乱れた字が呪詛のように連なっているのに、勉強をした記憶がまったくない日もあった。悲鳴を上げる心身に鞭をうって授業を受けながら、どうしてこんなことをしなけりゃいけないんだ、私はこんなに限界なのに、と涙が出そうになった。私の心は血を流していて、腐った血が身体を錆びつかせて手足を動かすのだって大変なのに。学校で体育や委員会や行事なんかがあるときはキレて叫んで回りそうになった。私はもう精いっぱいなのに、何てことをさせようとするんだ。殺す気か、と。
それでも、私の内面がどうなってるかなんてみんなに見えないんだから、せめて美しい心を持って、正しく生きなきゃと耐えた。そうしていれば、それがいつかは報われると信じていた。
母は、その態度が気に食わなかったのだと思う。
私が青春を謳歌しているようにでも見えたのだろうか。
高校一年生の夏の日に、母に言われたのだ。「あんたの制服洗っといてあげたから」と。
昨日着ていた夏の制服と、洗う必要のない冬の長袖の制服が私の頭にばさり、と落ちてきて、一目見てそれを洗濯機にぶち込んでめちゃくちゃにアイロンをかけたのだと分かった。洗剤を使ったのかも怪しい。妙な匂いがした。
私は母を刺激しないように「ありがとう」と言い、その制服を着て、学校へと歩きながら、数年ぶりに泣いた。
私だって制服が憎かった。ズタズタにしてやりたいと思っていた。でも、それは早く高校を卒業したいという意味で、こんな形でじゃない。私を殺そうとして嫌がらせをしてるのならまだよかった。けど、母はきっと「調子に乗ってる娘にちょっといたずらしてやった」くらいの気持ちしか持っていない。母の悪意で私の四肢は腐ってもうすぐ死ぬ。それなのに母は毎日殺人未遂をしている自覚がない。そして、私はそれを誰にも気づいてもらえない。
その日、公君に見つけてもらえなかったら、私はもうどうなっていたか分からない。多分、膨らんだ悲しさと憎しみで血管の圧が乱高下して沸騰して破裂して凝縮して露になっていたと思う。
公君とはクラスは違ったが、彼は人気者だったので存在は知っていた。崇拝されるようなタイプではなかったが、聡明なのに年相応に親しみやすく、思いやりと寛大さを持った彼のことがみんな大好きだった。時折いじられながらも、楽しそうに会話をしている姿を廊下でよく見かけていた。
そんな人格者の公君はボロボロの私を見て、授業を放ってかけずり回り、その日のうちに綺麗な夏服と冬服のセーラー服をどこからかもらってきた。
私が何度もお礼を言い、何も返せるものがないことを謝ると、公君ははにかみながら、「ずるいかもしれないけど、付き合ってください」と言った。私は面食らったが、私がこんな目に遭った事情、つまり母のことを話しても公君が揺るがなかったので、私たちは付き合うことになった。
正直、そのときの私は公君に恋愛感情なんてなくて、本当にお礼のつもりだった。
もう少し言うなら、私の秘密を知っても引かなかった彼にすがりたいという気持ちがないこともなかった。正しくないとは思ったが、同時に仕方がないとも思った。私は死にそうだったんだから。
公君とは放課後、公君の家まで歩きながらよく話をした。公君は歴史や科学や哲学の話が好きで、読んだ本の話を広げて世界についてよく考察をしていた。
私は自分のことを自尊心の低い人間だと思っているけれど、公君が私を好きだという言葉を疑ったことはなかった。
少なくとも彼の中で私が「特別枠」にいることは間違いなかった。
「こんな話、椎名にしかできないけど」と言って、九相図の話をしてきたときはちょっと圧倒されかけたけれど、グロいところはなるべくぼかそうとしてくれているのが分かったし、彼の話はなかなか面白かったので穏やかな気持ちで聞いた。きっとこの人に表裏はないけれど、人に合わせて話題や口調を選ぶタイプなのだろうと思った。
「初めて九相図を見たとき、虫の死骸が朽ちていくのを見るのと同じくらいの感情しか沸かなかった。朽ちてるのは人間なのに」
「自分が冷徹だって話?」
中二っぽい。公君が普段振らない妙な話題を出してきたので、私もいつも口にしない意地悪を言ったのをよく覚えている。
「違うよ。ちょっと馬鹿にした? いいけど。最初にそう感じた理由を考察したとき、俺は『肉体は精神の入れ物でしかない』っていう精神重視、肉体軽視の認識を持ってて、そのせいじゃないかと思ったんだよね」
夕日が彼の顔をオレンジ色に染めていた。今、公君を殺して野に葬ったら、こんな風に肌が変色して腐っていくのだろうかと考えた。それもこんな美しいわけもなく、青黒く腐敗して膨れて野犬に食われて、早く骨になった方がいいと思うくらい凄惨な肉塊に。
私がそんなことを考えていると知ってか知らずか、公君は話を続けた。
「でも最近はそれだけじゃなくって、虫の死骸が朽ちていくことが、人間が朽ちていくのと同じくらい悲しかったんじゃないかって考えるようになった。肉体の価値は再利用の概念を除けば虫も人間も同じだろ? つまり、思ったより俺は肉体にも思い入れがあったらしいってこと」
言いたいことは何となく分かる。公君は肉体より精神の価値が高いと思っていて、精神のない人間の肉体の価値なんてぶっちゃけ虫と同じくらいしかなくて、それでもその肉体のことを愛している。
公君は私が分かった風な顔をしているのを見て、話を続けた。
「それでも、もう俺みたいに人間の肉体に思い入れがあるのは古いんだと思う。昆虫や犬猫の価値はまだ肉体にある。でも、人間は精神があればそれでいい。よくあるでしょ、人間が肉体を放棄して、電子の世界に精神だけ移行するSF。今だって、肉体が脆弱でも医療で生きながらえることができる。それで闘病記を書く患者の精神を素晴らしいとほめそやす……」
私は、いつしか公君の話を聞くのが楽しみになっていた。公君に触れているときだけは、母のことを忘れられる。公君の話だけでなく、公君そのものにも惹かれて、必要としていた。母に酷いことを言われた日は、公君は私の手を取ってずっとそばにいてくれた。お礼で付き合ったつもりだったのに、こっちが感謝することばかりだった。
彼がくれた制服は私の宝物だった。とても母の目につくところになんて置いておきたくなかったから、スクールバッグに隠して毎朝着替えたのだ。季節外の制服は、公君に頼んで預かってもらっていた。
けれど、高校二年の九月の最終日、それを受け取っている現場を母に見られた。彼の家の前で、私と公君が制服を受け取っている横に、一台の車が止まった。一見してガラの悪い車だった。プッとクラクションを鳴らされて、邪魔だったか、と会釈をして退こうとしたとき、運転席の男と目が合った。にやにやと笑う母の彼氏。助手席には、言わずもがな、見慣れた悪魔。
その夜、母の手によって私の宝物は裂かれた。制服を持って帰らなければ、もっと酷い目に遭っていたと思う。現実を見たくなくて、私はタバコの煙と、点滅する蛍光灯と、テレビの芸人が笑う声に集中していた。そして、芸人の笑い声が、突然キャスターの真面目な声に切り替わった。例のニュースである。ちょうど、錆びたはさみで制服が裂かれているときだった。汚さないように細心の注意を払っていた布の繊維が千切られていき、別れた布の間から文字通り悪魔の顔が見えた。色魔の最終形態みたいな、ねばっこくて、性に特化したような、醜悪なモンスターの姿。私は、とうとう母を人間として見られなくなったかと思って、顔にも声にも出さずにちょっと笑った。私の妄想やるじゃん、母さんにお似合いの姿だよ、と。
途端、汚い床が見えた。母に足でも払われたかと思い、降ってくるであろう罵詈雑言を待っていると、母だった何かがぎゃあぎゃあと潰れた鳥みたいな声を出していて、その言葉はすでに理解不能だった。
おや、何かおかしいぞ。そう思いながら起き上がろうとしても、ただ地面に弧を描くように少し身体が動くだけだった。両脚と右腕がなくなったことに気づくのに十数秒かかったと思う。そして、目の前のつるつるの肌の女を見上げた。母だった何かの雌は、私を見てはっきりと嫌悪感を示したが、私はそこに喜びのような、優越感のような色が浮かんだのを確かに見た。ゲラゲラぎゃあぎゃあと音を発しながら、それは私を置いて出て行った。私の母のように彼氏のところにでも行ったのだろうか。いや、私の母か。今度こそ顔と声に出して笑った次の瞬間、残った左腕から激しい痛みが広がっていき、しかし痛みではなく何か絶望のような暗い感情によって、私は気を失ったのだった。
知ってた。
私は元々こんな姿だった。とっくに一歩も歩けなかったのに、地面を這いずるような気持ちで学校に行っていた。全身が痛いと言いながら、学校のいすに必死にお行儀よく座って、放課後は図書室に行って、心から血をまき散らしながら回らない頭で勉強していた。
私は、こうして傷を見られながら、痛いことを知らしめたかった。
私は、こうして安全な病院の中で、母から隔離されたかった。
私は、こうして依存していないと、生きることができない。
私は、こうして
「俺の考察、聞いてくれる?」
戻ってきた公君の手が私のまぶたを覆った。今日は目がただれるね? と言って、もう片方の手も添えられた。きっと血の混じった涙がそこをつたったと思う。
「精神の価値の方が高いから、人間の脳がそっちを知覚するようになったって考察?」
私は公君の手のひらの温度を感じながら、そう言った。
「お話泥棒はよくないよ。まあ、ヒントを出したのは俺だけど」
「ゴメン」
「いいよ、俺が喋りたいことはまだあるし」
公君の声が好き。公君の体温が好き。私を受け入れてくれる公君が好き。
「何で俺が人間の姿のままかってこと」
私は公君が怪物でもよかったよ。
「俺の精神が人間として理想的だったから。よく愛されて育って、年相応の適切な困難に触れて、それに汚されない技術を持てる環境があって、今日まで正しく育ったから」
公君の溜息を、私は初めて聞いた気がする。
「でも、俺はそれが嫌だった」
いつもと変わらない、羽毛のような柔らかい声。下から、コツ、コツコツコツ、と音が聞こえる。公君がつま先で音を鳴らしているのだろうか。まるで苛立っているみたい。あの公君が。
「正しい人間が他にもいればよかった。でも、どこを探しても人は幼稚で、必ずどこかに悪意を孕んでいて、歪んで、未完成だった。『これが正しい人間の姿だ』と散々説いた先生も、父さんや母さんさえ。中途半端に歪んだ人なんかは、俺といると自分の未完成さが目立つんだろうね、俺を見下すことによって俺との差を埋めようとした。『これくらいのことなら謝ったら許してくれるだろ? 優しいお前なら』って魂胆が透けて見えた。欲望に駆られて人のあるべき姿から遠ざかっている人の方がまだよかったよ。とにかく寂しかった。怖かった。怪物だらけの世界で唯一人間の心を持った俺は、確実に淘汰される。一年前、精神が具現化したときは焦ったよ。今はまだ、俺が迫害されることはないけど、時間の問題だ。それは嫉妬から、蔑みになって、差別になる。それで将来俺の子供が生まれたとして、また正しい人間の姿だったらどうなると思う? 考えたくもない。でも、自分だけ正しく育たなければよかったと思うのに、自分を歪めようとは思えない。絶世の美女が男に付け回されても、美貌に嫉妬されても、その顔に傷をつけたりしないように。おこがましいけど、神様ってこんな感じだったんじゃないか、なんて思った。そりゃ人の子の前に姿を現さないよな、なんて」
「私のことは?」
饒舌で早口な公君。
でも、話し方になんて興味はない。
それで、私のことはどう思うの。公君、私のことは好き?
「椎名が歪だってひと目見て分かったよ。ボロボロの制服を着て、左腕に爪を立てて、すっごい顔してた。一日二日の何かの事故でそうなったんじゃなくて、毎日拷問を受けてついに発狂するみたいな顔。でも、椎名は他の人間よりずっと可愛かった。生きるのに精いっぱいで悪意が生まれる余地がなくて、すべてが自分の中に収束してて、弱くて、消えそうで、踏まれた虫みたいにボロボロなのに必死に動いてた。この欠損だらけの女の子を、俺が飼い殺したいと思った。そうして俺はこの子と癒着したら、世界は俺を迫害しなくなるかなあ、俺は綺麗なままで、救済という名目で、俺は完全性を放棄できるかなあ、なんて思った」
公君の手が、私のまぶたから離れる。ベリッと音がして、公君はゴメン、と言った。
「俺のこと嫌い?」
公君は泣いていた。
夕日が彼の涙の線を照らして、まるでただれているようだったが、それが錯覚だと分かっていた。彼の頬は美しい肌色のはずだ。これからもずっと。
「好き」
私は自分の痛みが治まること以外に、あまり興味がない。
世界に執着しない君が愛着する制服と癒着による征服 火星七乙 @kaseinao
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