在りし日の日常 曾ての記憶


 夢から醒めた時。微睡まどろむ空想から現実へ引き戻されると、直前までみていた夢の内容を忘れるという経験は誰しにも有るだろう。

 別にして重要でもないのに、それを思い出すのに時間を使ったりもする。それが良い夢だったか、そうでないかは別にして。


 大抵の人はそこでアクションを終えるが、これが湊の場合だと少し話は違っていた。


 彼が夢を終える場所は何時も決まっていて、それ迄みていた夢を強制的に断たれると、先ず水面が見える深さを漂うところから場面が始まる。


 そこから先は2つに分岐し、良い夢を見ていた時はそのまま水上へと引き上げてくれる。

 ゆっくり静かに。実際の速さとは異なるが、浮力が水圧に勝り身体を押し上げていく感覚は正に夢と現実の入れ変わりを肌で感じているかのよう。

 焦燥も苦しさも無く、ただ流れに身を任せて浮かんでいく。この時点で湊はこれが夢だと気付き、そして覚醒に至るのだ。


 逆に悪い夢を見た場合はどうなるか。

 此方も水中を漂うところは同じだが、前者と異なり厭に身体が重いのだ。水面に押し上げてくれる力も何故か働かず、逆に重みとなって湊を苦しめる。

 それは夢でも何でもなく、まるで本当に水中へ放り込まれたかのよう。


 本物のように感じるとはつまり、息苦しさも現実と変わらないということ。漏れた空気が水泡となり、手を伸ばしても上へ上へと逃げていく。

 その様子は焦りを通り越し、ある種の絶望感さえ感じられる。

 それでも必死に手足をばたつかせ、生きるため懸命に踠き、足掻き、そうして水面まで上がって漸く目が覚めるのだ。


 その現象を認識するようになって以降、湊はこれを夢の一部だと思わなくなった。

 夢と現実の狭間には、もう一つ領域が存在する。

 湊は後にそれを夢幻領域と呼び、毎度繰り返される光景は両者が引き合って起こるものだと考えるようになった。


 夢幻にいる時に深く潜夢に戻ってはいけない。


 誰に言われたでもないが、湊はこれを破ったことがない。

 ただ抗うことを止めた時に、自分が自分で無くなるような気がして恐いのだ。一度も為したことがない行為の危険性を、湊は本能で感じ取った。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





「っ―――!」


 ガバッと音がつく勢いで飛び起きた湊は己の身体を確認した。

 昨日寝る前に着たパジャマは汗でぐっしょりと濡れ、自慢の毛並みが寝起きにしても酷いぐらいに乱れている。動悸も速く、心臓の酸素を寄越せという声に半ば無理矢理な呼吸で応じた。


「はあ、はぁ……!」


 まるで水中から抜け出した後のような状態に、先程までを思い出し身体が震える。芯の先まで凍てつく恐怖に精神こころまでが悲鳴を上げたのだ。

 


「どないしたの湊。また怖い夢でも見とったん?」



 そんな彼を覗き込むようにして一人の女性が呼びかけた。

 

 声の女性は大変見目麗しく、街を歩けば視線を独り占めにしてしまうほどの色気を醸している。

 二つの双丘を宿す熟れた身体付きは瑞々しくもあり、同時に若さ故のバイタリティに満ち溢れていた。屈んだ拍子に髪が一房零れ、膝まで届く長い銀糸が湊の前で床に付く。

 女性はそれを気に留めるでもなく、身を竦ませた湊を慈しむように見ていた。


「ッ~~、お母さん・・・・!」

「あらあら、この子ったら」


 湊は母親を見るなり抱きついて、女性もクスリと笑みを浮かべると顔がよく見える位置まで湊を抱き上げた。


「よしよし。怖かったなぁ」

「あのね、かなえまた溺れる夢を見たの。でもそれが夢じゃないみたいで、本当に息ができなくて苦しいんだ」

「それは可哀想に。ほら、母はんに甘えてみい」

「うん」


 女性は小さな背中に手を回し、愛する我が子の泣きを誘った。湊がそれを享受すると、まるで深い霧が押し出されるかの如く今までの不安やら恐怖感が嘘みたいに晴れた。

 大好きな母の温もりに包まれたことで安心し、それと共に悪戯心が芽生える。


「えへへ~」

「どや。もう落ち着いたやん。そろそろ降りれるか?」

「な~に~? 聞こえな~い! かなえ甘えたがりだから都合の悪いことは分かんな~い」

「もうまたそないな事言う」


 分かりやすく耳を塞ぎ、腕の中でキャッキャとはしゃぎ立てる。母親が怒らないのを良いことに、湊の図々しさはこの頃から健在だった。


「ほら。ご飯も出来上がってるさかい早う食べようなぁ」


 母親は湊を抱き抱えたままテーブルへと移動する。

 今日のメニューはご飯に昆布と海苔のだし巻き卵、白菜ときゅうりの漬け物に、甘辛く煮た肉豆腐。汁物には揚げと大根の味噌汁が添えてある。


 朔久・・家の朝食事情は決まりが無いのが決まりみたいなもので、今日みたく和のテイストに偏ることもあれば、手ずから焼いたパンが並ぶ日も多い。

 どれも一から作られており、朝から労力を厭わない。それだけ大切に育ててもらえることに湊は言い知れぬ幸福感を抱えていた。


「あぁ、しもうた。服も濡れてもうたなぁ。後で着替えな」


 その声に湊がビクリと反応すると、途端に汐らしく項垂れた。それが自分を相手にした時に出来た汚れだと分かったからだ。


「ごめんなさいお母さん…」

「何もやで。気にしいひんでも良えさかい。それよりも湊は後で身体を拭いたるね」

「うん……」


 母が着ているのは洋服などの簡便的な代物ではなく、日本古来からの伝統衣装……つまりは和服である。

 支度に手間と時間が掛かり普段着として使うには向かないそれを、母は好んで着ていた。そんな母の意向も有り、湊の衣装のおよそ八割が女児用の和服である。



「あぁそうや。こないだ言うた仕事の話、あれ今日になったわ」

「えっ!!」 


 食事の最中さなか。突然母からその事を告げられると、湊はおかずに伸びていた手を止めた。


「こらっ、箸を止めへん。前に説明されたよりもええ話来たさかい、そっちの都合で今日にして欲しいって事になってん」


 そうなった経緯を簡単にだが伝え、そこに自分の承諾があることも教えた。しかし湊は不服そうだ。


「そんなの、お母さんが合わせる必要無いと思う。頼む立場の癖に何様のつもり」

「大人の世界は厳しいもんやで。ほんでも母はんなんかは全然好きに生きてはる方やけど」


 納得の行かない湊を他所に話は進められていく。

 この日はおよそ数ヶ月ぶりの仕事が入り、その為にも家を出ないといけない。まだ幼い湊に大人の事情を話すのには歴とした理由がある。と言うのも……


「それでどないすかだけど、湊はどうや。また付いて来るか?」

「うん。お母さんが行くならかなえも行く…」

「そっか」


 湊は本人の強い希望もあり幼稚園のような託児所には通ってない。それでも前に一度だけ行かせてみたのだが、三日と持たず辞退を申し出た。

 以降はずっと付きっきりで、仕事も湊との時間を取れる業種へと変えたのだ。そうなると当然家で待つか一緒に行くかの二択に迫られる。


「なら早う準備しいひんとね。頼まれたとは言え仕事を受ける立場なんやし、遅刻は許されへんで」


 朝食を済ませ、お風呂で身体を洗いっこした後に着替えへと入る。

 母は花と川を織り込んだ訪問着を身につけたのち、その上から色留袖を被せる独特の二枚掛けをした。湊は子供用の小紋の他に、防寒対策として革のジャンパーを手渡される。


「さ、行こか」





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





「いやー、良いですね~! そう、その表情最高! あともう少し顎を引いてくれますか~?」


 フラッシュが焚かれる音に混じり現場には様々な声が行き交う。

 アシスタントに要望を伝える者や、視察に来たスポンサーから浴びせられる質問の声。出来た写真をその場で編集する人に、機材を運び込む音等々。

 これだけ大掛かりで数百という写真が撮られるにも関わらず、起用されるのは僅か数枚程度。その数枚を掘り出す為だけにこれだけの人が忙しなく闊歩していた。


 この撮影に限りアルバイト等は募集せず、スタッフも全て一流の者を取り揃えてある。携わる人数も通常の倍と、それだけ今日の撮影に力を入れていることが窺えた。

 その中心に据えられた女性はと言うと、掛かる重圧をモノともせず向けられる期待に応えていた。


かえでさ~ん。そろそろ次のポーズ良いですか~?」

「確認せんでも良えから速うお願いね。子供を待たせてるさかい」


 楓と呼ばれたのは言わずもがな湊の母である。家を出た時に被せた色留袖を丁寧に羽織り、その上から次は紺色のジャケットを決め込んでいる。

 和服の上から形式の異なるファッションを着飾る様は得てして妙だが、そのアンバランスさが彼女と同調し引き立ててもいた。


 美人は何を着ても似合うとは良く言ったもので、むしろこの世の美を結集したような彼女には尖り過ぎてるぐらいが丁度良いとさえ感じる。


「そんなに急かさなくても大丈夫ですよ~。時間内にきっちり終わらせますから」

「だとええけど」


「楓」――本名朔久奏楓さくひさ かえでは世界的に有名なファッションモデルである。


 低迷続くファッション誌業界に突如彗星の如く現れ、その人気を海外にまで拡げるまさにモデルの中のモデルだ。

 20万部売れればヒットと言われる日本でその100~200倍を叩き出し、多い時で累計5000万部を達成した事もある。和服の上から更に着込むという独特のスタイルは「カエデ式」とも呼ばれ、今なお世界中の女性たちの憧れになっていた。


 また、彼女の台頭は日本中の着物職人にも影響を与える。彼女が着ていた着物の反物が即日には完売なんてよく有る話だ。

 和服は海外でも評価が高いから、そこに奏楓のプレミアが付けば競争も生まれるよう。

 おまけに彼女自身着物の製作に加わる事がある。実際に下絵を担当したものが今湊が着ている小紋で、これを誕生日に貰って以来宝物として大事にしていた。



「う……く…、」


 そんな大スターの撮影が行われているセットの横で、湊は母の仕事が終わるのを待っていた。

 頭が痛むのを必死に我慢し、気分が悪い事を悟られないようにする。


(気持ち悪い……吐きそう……、頭痛い…ッ)


 編集をしていたスタッフが上司にミスを指摘され頭を下げている。だが謝罪をしているのは形だけで、心からの反省はない。

 スポンサーと広報の会話は盛り上がりを見せるが、時々誇張を交えて話をしている。一種のスキルとしてなら冗談も利巧だが、それが余計湊の眼に触るのだ。

 機材を運搬していた内の一人が奏楓に見惚れ、うっかり壁にぶつけてしまう。幸い他の面々も奏楓に釘付けになっていたので、何事も無かったかのように仕事へと戻った。


 嘘、嘘、また嘘。

 あれも、これも。眼に映るもの全て嘘だ。

 真実なんて欠片ほどしかない。

 外の世界は嘘で満ち溢れている。


(お母さん……!)


 朔久湊は人の嘘が視える。


 それが善意であれ悪意であれ、喩え行動でも言葉でも何もかもを嘘と認識する。それを視れば強烈な不快感に襲われると知りながら、湊に防ぐ手立ては無い。


 人の感情を一部とはいえ視てしまう事への代償か、嘘を感知した後はこうして気分が悪くなる。

 イカロスは翼を得たことで己の力を過信し自滅したが、湊にはそれが当て嵌まらない。むしろ視たくもないモノを視せられているだけなのに、不当な罰を受ける自分を可哀想とさえ思う。

 同時にこんな不条理を叩き付ける存在を怨んでもいた。もし実態があるならばこの手で死返すとも。


「はぁ…はあ……ッ」


 だがそれは何年後かの話。現時点では苛立ちに身を焦がす事も、恨むことさえ出来ない。今出来るのは只々耐える事のみ。仕事の邪魔にならないように平静を装うだけだ。


 何故こうも辛い思いをしてまで付いて来たのか。ただ単に母と離れたくなかったのもあるが、それ以外にもちゃんと意味があって来た。その意味というのが――


「そう言えばさっきの写真ちゃんと撮れてるか? 完璧でなかったら赦さへんで」

「さっきのって……あぁ湊君と撮ったやつですね。大丈夫ですよ~。言われなくてもバッチリ収めてますって」

「そっ、なら安心やわ」


 そう、湊も母と一緒に撮影に参加したのだ。女性用のファッションを撮るのに先駆けて、親子……特に小さな子供のいる母親をターゲットにしたイメージ撮りを先に済ませていた。


 彼等にしてみれば自分達母子は金のなる木。今までの売上に加え更に客層が伸びる事を考えれば、湊を使わない手はない。

 現にただの連れ子にするとは思えない待遇で迎えられている。湊はその心理を見抜き、その上で撮影に参加した。


 そこにはお金を少しでも多く貰って母を楽させたいという想いもあるが、一番の目的は牽制だ。それは此処にいるスタッフ含め、全世界へと向けられた反抗の意思である。


 誰も手を出すな。母の横には自分がいるぞ、と


 この雑誌を買う人間は何も女性だけではない。世界経済をも巻き込む美貌と評される彼女には、当然ながら男性のファンも多くいる。

 湊を除いて二つとない銀白色プラチナシルバーの髪もそうだが、何よりその輝きを引き立て役に置ける精巧な顔立ちが世の男共を夢中にさせた。ともすれば学生にも見間違われ、息子どころか成人している事さえ知らぬ輩も多い。


 つまり湊の目的は、そう言う無知蒙昧な奴等に現実を教えてやることだった。その為に雑誌を活用するのはある意味当然の事と言える。喩えそれが自分の身を削ることだったとしても、母の隣だけは譲れなかった。



「湊くん大丈夫? 具合でも悪いの?」


 そんな一人嘘と闘う湊に、声を掛ける者がいた。周囲が奏楓に注目する中で、その人だけが湊の異変に気付いていた。


「気分が悪いんだったらお姉さんが診てあげようか。私甥がいるからこう見えて子供とか得意なんだ!」


 人懐っこくアピールする女性を湊は冷めた眼で見る。


 子供を得意と言った所か、それとも甥がいることか。将又診てあげるの部分からして違うのかもしれない。

 湊は彼女の発言がである事を見抜くと、反射的に女の意図を疑い始めた。


 最も可能性が高いのは湊の覚えを良くし、出世の出汁にすること。一番手っ取り早いのは奏楓にすり寄る事だが、彼方は競争も激しく難易度が高い。もしかしたら女としての劣等感が邪魔したのかもしれない。

 次に考えられるのは単純に湊に興味がある場合。勿論嘘を吐いてまで近付くことを考えれば、真っ当な理由では無いのだろう。彼女が成長の未成熟な子供に興奮を覚えるような変質者だった場合、湊以上にその欲望を満たしてくれる子はいない。

 何せ男の子と女の子、どちらにも取れる容姿をしているのだから。


 つまりは取り合う価値無しとして湊は無視を決め込んだ。


「……」

「ねえ聞いてる? もしもし湊く~ん」


 それでも反応を求めて来ると、気分が悪い上に体調も落ち込み、先程より状態が悪くなる。青ざめた顔が更に薄くなり、段々と白みも増してきた。


「ほら大丈夫じゃない。こういう時は大人の言うことを聞くものだよ」


 そう言って抵抗の薄い湊の手を取ろうとする。



「……何してはるの?」

「ッ…、」


 だがその手は途中でね除けられた。パシンという乾いた音が辺りに響くと、幾人もの視線が慌ててそちらに向けられた。


「あ、あれ……? 何で、」

「ねぇ何をしてるって聞いてるんやけど。貴女あんたうちん子供に何しようとしとった?」

「ヒッ…!? いえ、あの…! 私はただ――ッ」


 奏楓に正面から立たれ女は忽ち萎縮した。普段から感情を読めない事で知られる奏楓が、今まさに毛を逆立てて女を威圧している。

 壮大な雪原を思わせる雪結晶色スノーホワイトの瞳は烈火の炎で赤く染め上がり、剥き出しの牙で喉元を噛みつかれるのではと女は身を震わせた。

 それはまるで脅威から我が子を守る母狐のような。親としての役目を持った奏楓が前に立ち、一連の事情を問い質す。


 それと同時に撮影に関わっていた殆どの面々が眼を白黒させた。

 先程までカメラのフレームに収まっていた奏楓が一瞬で姿を消し、次に見た時は身も竦むような怒気を華奢な身体から迸らせていたのだから。


 あれだけ目立つ風貌の奏楓を、況してやこの人数で見失うとは考えづらい。一体どんな方法を使ったのだろうか。

 それを知りたくても憤懣の渦中には飛び込みたくないし、彼女の認識から外れていることに今だけは安堵した。



「わ、私はただ、湊くんが調子悪そうにしてたから診てあげようと…」


 奏楓から怒りの矛先を向けられた女性はというと、呂律の回らない舌で何とか言葉を口にし、必死に弁明を訴えていた。


 今の状況だけ見るならば、息子を心配してくれた女性に奏楓が一方的に絡んだ事になる。

 その事を理解しているからか、奏楓もそれ以上のことは言及しなかった。


「……そう。うちん勘違いやったか。堪忍な熱なってもうて」

「え……? ――っ、いえいえそんなッ! 勝手に話しかけちゃったのは私ですしっ、」


 素直に謝罪の言葉を述べた奏楓に、女が一拍遅れて返事を返す。これ以上の過度な否定は逆に気を損ねると思い口を噤んだ。女はすっかり奏楓を怯えた目で見ていた。

 両者の緊張が緩んだところで、また辺りがざわつき始める。奏楓はその場の全員に一連の流れを詫びると、湊を優しく抱き抱えスタッフに話し掛けた。


「お手洗いは何処やろか。この子調子悪いようやさかい、撮影を一旦止めてくれはる?」

「あ、あぁ構わないよ。トイレはそこを出て左だ。皆には私から伝えておく」

「おおきにな」


 軽くお礼を言ってスタジオを横切ろうとする。その際に呆然と立ち尽くす女の横を通り過ぎた。


「今度ちょっかい出したら赦せへんかもね」

「ッ―――!!?」


 耳元でボソッと呟くが、言われた本人と湊にしかその声は拾われなかった。女は直立不動のまま湊と同じくらいに顔を蒼白させた。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「う、お”えぇ”ッ~~、」

「そうそう、全部嘔吐えずいたらええ。ほんならスッキリするさかい」

「うん……おえ”ぇッ!」


 背中をさすって胃の内容物を全て吐き出させる。奏楓の励ましもあってか既に粗方出尽くしており、今は気持ちを落ち着かせている最中である。

 渡された水を口に含むと、数度含嗽うがいをし口内を濯いだ。


「脱水も注意しいひんとやさかい少しだけ飲もか。気持ち悪ならへん程度にね」


 母の指示に従いそのまま待つと、先程と比べだいぶ楽になる。まだ口に胃液の酸っぱさが残るが、問題ないと言って母に判断を委ねた。


「この後はどないしよか。あまりに酷いようやったらこのまま帰してもらう事も考えるけど…」


 一般的な女優やモデルと違い、奏楓は個人で仕事を組んで活動している。マネージャーも付けなければ、事務所にも所属していない。全部自分一人だけでやっていた。

 フリーモデルは専属と比べ配当が良く自由に活動できるが、その反面仕事を斡旋してくれる人もいない。そのため働き口を探すのに苦労する。


 勿論奏楓にそんな心配は無く、むしろ山のようなオファーから選り好みする余裕さえある。


 その選別方法というのがまた独特で、採用するにあたり予め彼女の方から金額を吹っ掛けるのだ。

 採用される側はそこから更に上乗せし、その額を彼女に提示する。自分が設定した値段より高い企業が有ればまた上乗せし、それを繰り返し行って報酬を吊り上げるのだ。

 要は条件競売オークションという形を取って対価を得ている。自分を商品に見立て、一番良い環境で労働に勤しんでいた。


「先にタクシー呼んでもらおか? 今からなら一時間で家に戻れんで」


 そんな訳で。奏楓としては別にここで中断しても構わないと思ってる。


 当初予定していた金額よりは下がるだろうが、それでも家族二人暮らすには充分過ぎるほどの報酬を既に得ている。

 通常依頼通りに出来なければ報酬は0なのだが、奏楓に限ってはそんな事にならない。どの業界でもトップは優遇されて然るべき存在なのである。


「ううん、いい。中途半端な報酬だけ貰っても次のお仕事が早まるだけだし。だったら約束通り受け取って家に長くいてくれる方がかなえは嬉しい」


 およそ小学校入学前とは思えぬ発言だが、元より他の子と比べ抜きん出ていたので今更と言えよう。

 親が親なら子も子供だ。あの母にしてこの息子ありを実によく体現していた。


「くすくす。そないな言葉出る内はまだいけるかしらね。せやけど無理や思たらすぐに言うのやで? お願いされたし黙っとったけど、今度倒れたら問答無用で帰らせるさかい」

「うん分かった!」

「ほんまに分かってるのかしらねこの子は…」


 喉元過ぎれば熱さ忘れる。何時もの調子を取り戻した湊に苦笑を浮かべると、抱っこではなく手を繋いで二人歩いた。



……



 二人が現場に戻ると、あの女性は居なくなっていた。

 降ろされたのか自分で降りたのかは知らないが、特に思うこともなく撮影を再開する。


 その後はスムーズに進んでいき、最後の一枚を撮り終えたところで仕事は終了した。


 挨拶も程々に、社長やらスポンサーからうちの会社はどうだとの勧誘を受けたが全て断った。

 彼方は初めてでも奏楓はこのやり取りを既に何十何百回と終えている。今更寄って来たところで望む答えなど出ないのだ。



 止めていたタクシーに二人が乗り、そこで奏楓が息子を労った。


「お疲れさま。最後はよう耐えたなぁ。えらいえらい」


 白く透き通るような手で彼の頭を撫で、何時もと変わらぬ慈母のような微笑みを湊に向けた。


「一番働いていたのはお母さんでしょう? 何でかなえが褒められるの?」

「湊が一番頑張っとったさかい。頑張った子は褒めるのが親の務めやからね」

「そうなんだ。えへへ~、じゃあもっと撫でて!」

「はいはい」


 湊は母と同じ銀色の髪が好きだ。そしてそれ以上に母のことが大好きだ。

 大好きな人に好きな所を撫でられるのは最高に嬉しい。だから褒められると湊は何時も髪を撫でてと強請む。それが彼にとって一番の報酬だからだ。


「えへへっ。お母さん大好きー!」

「あっ、こらもう。またおっぱい抱きついて。あ~あ、服もグチャグチャに」


 悪気の無い湊のその行動が運転手にダイレクトアタックしていたとは気付きもしないだろう。何とか到着した時には色々と前のめりになったいた。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 湊を構築する世界は極端に狭い。3LDKの納戸付きと言えば広く聞こえるかもしれないが、逆にそれだけだと開放味も薄れる。

 都会の喧騒を下に敷き、人の姿が塵ほどにしか見えない所での接触など高が知れてるというものだ。


 外に出るのは今日みたいな仕事の日を除いて月に二、三度ほど。人のいない公園に赴いたり、隅に図書館など行って書物を読み漁ったりする。

 それ以外は食材含め全ての物資を宅配サービスで調達し、出来うる限りの外出を控えた。


 自分の嘘を見抜く体質のせいで母の自由が奪われる。それだけが成長した今となっても残る罪悪感だった。

 縛られることを嫌う湊だからこそ、この状況が如何に窮屈なのかを理解できる。自分達二人は親子だから、性格も似通っているから。


 本当は遊び人みたいな性格で、やりたい事も沢山ある筈なのに。それらを全て抑え一切の愚痴も漏らさず湊に寄り添ってくれる。

 湊はそんな母を誇りに思うと同時に、重荷となっている自分を恥じた。



「さっ、着いたで。着替える前に手洗いを忘れんといてね」

「うんっ!」


 数時間ぶりに帰ってきた家に湊が笑みを綻ばせ、母の言う通り洗面台に向かった。


 奏楓は着ていた着物二つをブラシで前処理し、新作として受け取った一枚に変色等がないかを細かくチェックした。

 前にクリーニングに出した時に、無くしたなどと訳の分からない言葉が返ってきたことがある。恐らく変な事に使われているのだろうだが、それ以来衣類などの身に付ける物は自分で綺麗にしていた。


「お母さん終わったよ!」

「ん。ほな湊のも出して」

「ん!」


 自分のを終えて湊の分に取り掛かる。特に今日は吐いたから、シミや汚れがないかも確認する。


「……」


 ツツ――、


「……」


 サー、サー…


「……ぅん」


 ゴシゴシ


「…Zzz」


 静かな空気に当てられて、湊が船を漕ぎだす。嘘の世界から解放されて、張りつめていた緊張が緩んだのだ。


「あらあら眠いの。お布団敷いたるさかい寝といで。夕餉には起こしたる」

「んぅ……いいの。寝るとまた怖い夢見るから」

「ええ夢見られるように母はんが子守唄を歌うたるさかい、速う行こうなぁ」

「ん~…」


 今朝の事をまだ引き摺っているのか、中々足を踏み出そうとしない。それでも子守唄と聞いて、漸くその場から立ち上がった。

 そして元はフローリングだったのをそのまま畳を被せ、無理やり和室にした寝室に湊を寝かせた。


「やっぱり怖いからかなえ寝たくない」

「はいはい我儘言わへんの。寝不足は健康の敵やで」


 それでも駄々を捏ねると、髪を撫でて眠気を誘う。


「子守唄、歌って…?」

「分かってるって。ほな眼を閉じて」


 重い瞼をゆっくり下げ、夕焼け色の視界を絶った。


 そして髪に触れていた手を退かすと、湊の額にキスを落とした。



「おやすみ湊。ええ夢を」


 

 後には鈴のが鳴るような、幻想的な唄声が室内に響いた。

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