第5話

目を覚ますと、朝陽の差すベッドの上ではなかった。

ひんやりとした固い感触。カレーの匂い。暗闇の地下街のカレー屋の中だと分かった。ただ、それ以上の情報はない。何の灯りもない。自分が動く時の衣服の擦れる音、地面と手の触れるヒタヒタという音を除いて、この空間は無音だった。立ち上がることも歩くこともできず、しばらくそのままの体制で途方にくれるしかなかった。この空間が現実なのか夢なのか、異空間に迷い込んだのか、私は生きているのか死んでいるのか、さっぱり分からなくなってしまった。どこかも分からない地下深くの暗闇で一人になったという事実を冷静に捉えたら、もう少し気が狂っても良さそうなものだが、私はこの地下街がどうしてこうなったのかが気になって、そればかり考えていたのでいくらか平気だった。


少し時間が経って、突如電気が付いた。しかし、店主も居なければ、回廊を歩く他の客の音もしない。この地下街には誰も居ないようだった。


外に出てみることにした。自分の足音だけがコツコツと鳴り響く無人の地下街。異様な雰囲気だった。何も考えないまま、回廊の手摺にもたれ、ふと底を見降ろした。そして驚いた。


暗闇だ。


今までにこんなことはなかった。どれほど下を見下ろしても延々回廊が重なっており、暖かな電球色と人混みに溢れる地下街は続いていたはずだった。


階段のほうに行ってみると、私はさらに驚いた。階段はこの階から数段下がったところで途切れており、その先は何も見えないが、かなり深くなっているようだった。落ちたら確実に助からないな、などと思いながらふと横を見ると、横の手摺に小さな看板が括り付けられており、そこにはこう書かれていた。




「この先 地獄」




私は全てを思い出した。







春になった。あの大きな喪失から一年が経とうとしている。

病院に向かう途中の満開の桜並木。下校中の小学生たちのカラフルなランドセル。赤みがかった空。家路を急ぐ車。世界中の人にとってなんてことのない一日。幸せな世界に取り残された一つの病室。


今でも鮮明に覚えている。

「もう忘れないよ」

私はそう呟き、線香に火を付けた。




どこかで地下街が炎に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地下街 桐野燦 @kirinosun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る