第3話

何故繁華街に居たのかは分からない。ただ何か忘れたかったことがあったのは覚えている。ようやく涼しくなった初秋、またしても私はこのドアを潜り、この階段を下っている。謎も多いが、不思議とここで過ごす時間は心地良かった。それはカレーの味でもない、店主の人柄でもない、形容し難い魅力だった。広がる電球色。賑やかな人集り。何が良いのかな、などと思いながら、迷うことなくあのカレー屋を目指した。もう三度目だというのに、場所を覚えられない。こんなに下の階だったかな。

店に入ってからは一分一秒が大事だ。いつ記憶が飛ぶか分からない。私には知りたいことが山ほどある。相変わらず店には客が居ない。それでもまるでこの時間に私が来るのが分かっていたように、店主は最初からこちらを向いている。

「いらっしゃい」

再放送のように変わらないトーンで出迎える。

「またまた、来てくれたね」

近くに寄ったので、と常套句を言い掛けて、私は言うのをやめた。今聞いてしまえばいい。ここがどこなのか。記憶が飛んでいるのは何故なのか。笑われるかもしれないが、この店主はきっと何か知っていると私は信じて疑わなかった。

「実はここがどこなのか、どうやってここまで来たのかも分からないんです。そして私はカレーを食べている間に家のベッドに戻っている。おかしな話ですが、ここは一体どこなんですか」

店主は穏やかな笑顔のまま、目線を落とした。

「そうか、何も知らなかったのか」

店主はそういうと少しの間沈黙し、くるりと後ろを向いてしまった。私は席について、その背中を眺めるしかなかった。まだ頼んでもいないのに、黙ってカレーを作っている。

何も知らなかったのか。憂いを帯びた声だった。何かまずいことを言ったのか、とも思ったが、それよりももっとずっと嫌な予感がした。私は何か大変なことに気付いていない、急にそんな恐怖感に襲われた。

「ここはね」

後ろを向いたまま店主が急に口を開いたので、私の思考はストップした。

「ここはね、つらいこと、忘れたいことを忘れられる場所なんだ。この地下街に来る人は皆、何かしらの忘れたいことを抱えている。君もここに来た時、それを抱えていた」

私は何も言えなかった。驚きと納得。相反する感情が胸に渦巻いていた。カレーが出てくるのを待ちながら、黙って下を向いていた。私のつらいこと。忘れたいこと。思い出せる訳がない。この地下街できれいさっぱり忘れてしまったのだから。思い出したくもないようなことだったのだろうか。だったら忘れてハッピーじゃないか。何を恐れている。忘れたいことを忘れるのは誰もが望むことだ。そう言い聞かせても、妙な胸騒ぎは止まらなかった。

カレーが出てくる。最早味なんてしない。嫌な沈黙。早く家にワープしてくれとさえ思った。

「思い出したいか」

店主が変わらない表情で言う。

「はい」

はい、なんて答えるつもりはなかったのに、自然とそう答えてしまった。潜在的に知りたがっているのか。怖いもの見たさなのか。ジェットコースターの頂点にいるような気分だった。

「例えば、君の家族構成はどんな感じかな」

急になんの話だ、と面食らってしまった。

「父、兄と姉ですが」

「つい最近まで母親が居たとしたら?」





気付くと自宅のベッドの上に居た。今までと違って頭痛が酷く、良い夢を見た後のような甘い余韻もなかった。今回は何か特別なことがあったような気がする。けれども思い出せない。思い出そうとすればするほど頭がズキズキと痛む。でも、思い出す必要がある気がしてならない。またあの地下街に行く必要がある気がしてならない。

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