winter gown
「私の家は昼と夜の境目にあるから、常に周囲が朝夕のような明るさだ。寝るときは遮光布を閉めてくれたまえ」
猫耳の生えた黒髪の客人のノアールを家に招いた。
旅人が宿泊するのもいつぶりだろうか。この前の鹿の角の生えた来訪者は、数日で気がふれてしまったが、今回はどうだろうか。
「家は古民家を改装した二階建てで、二階に寝室をふたつ誂え、一方は私室、一方は客室。部屋は掃除してある。我が家と思って寛いで」
客人の掌に部屋の鍵を置いた。
口数が少ない性質なのか、まだ私を用心しているのか。あまり多くは話してこない。あまり多弁でも私も職務に触るので、助かるが……。
家の一階にある風呂場などの水回り、居間、納戸、台所の使い方など事細かに伝えた。
そこで気が抜けたのか、彼は小さく欠伸をした。
瞳の青が潤んで水たまりのようにキラリと光る。
胸がぎゅっと痛む。
アリス、
アリスはどこに。
私は咄嗟に自分の目を手で覆った。
「あ、ああ。少し疲れただろう。お互いに各部屋へゆこう」
三月、忌まわしい季節だ。
得体の知れない焦燥、衝動が私を蝕む。
アリスはまだここにいない。アリスは私だけのものだ。
誰にも渡したくない。
階段を駆け上がり、急いで部屋の戸に鍵をかけた。
遮光布閉め、出窓に置いてある香炉皿の塊に、そっとマッチで火をつける。
たちまち火は塊の中に潜っていく。間を置いて、ほそい糸のような煙が立ち上がる。
紫色のまやかしの煙があっという間に体に巻き付いてそのまま夢の中に傾れこんでいった。
木の床。
かすかに香のかおりが残っている。
目の前がチラチラと光って見える。頭が重い。
あのまま眠ってしまったようだ。
ふいに舌打ちをした。これでは朝の予定が全部狂ってしまう。
ゆっくりと立ち上がり、私室を出た。
二階から階段を降り、廊下の先の居間の前で立っている客人と目が合った。
「おはよう、ノアール君」
「おはようございます」
「私は朝の湯浴みにゆく。待てるようならば、朝飯を一緒に。どうだろうか」
彼はほほ笑んで、是非に、と答えた。
「貴方は常時そのように丁寧なのかい。ここは家だ。家くらいは気楽にしてくれ。しかし、時間だけは厳密に。十時には外へ出るので、身支度を済ませておいてほしい。納戸の開き箪笥の衣桁に何着かある。好きなものを選んでくれ」
現在午前八時半。予定がずれ込んだが、大丈夫だろう。
そそくさと風呂を済ませ、脱衣室の時計は九時。
立襟シャツ、着物、袴を手早く自身に着付ける。靴下を履きながら、廊下に出て居間を覗いた。着替えが済んだのか居間の椅子にちょこんと座って待っている様子が見える。
足早に居間に入り、彼を椅子から立ち上がらせた。身頃合わせが逆で、ずいぶん胸も背中も隙間がある。急いで着付け直し、腰紐を結わない簡易袴を合わせた。
見れば見るほど、客人の躯幹は細くて折れてしまいそうだ。顔も中性的で、不思議な少年。想像していたより、この國の装束が似合っている。
「よし。支度はこれで好い。出かける前に、私の気に入りの冬羽織を貸そう」
私が話すたびに、はい。と丁寧に答えるものだから、いじらしい。
「前日の残りでも食べられるか。食べ物に直接は箸をつけていない」
「はい。大丈夫です」
温め直した煮物や焼魚を小分けにし、二人分に配膳した。
汁物は作る時間がないのであきらめた。
午前九時半。
食べ物をロクに噛まずに喉に流しこみ、そそくさと食卓から離れた。
二階から一階それぞれに戸締りをし、もう一度居間に戻り、つながっている台所の元栓も確認した。
一旦玄関より外に出て、天気を見る。晴れている。昨日より肌寒い。
また家の中に戻り、納戸に駆け込んで二着の冬羽織を衣桁から取る。
午前九時五十三分。
彼も食事が済んだことを確認し、私の気に入りを渡した。
客人が選んだ着物が深い藍染めで、袴は濃い灰色。それに合わせ、羽織は白基調に鮮やかな紅椿に青海波梅の模様のあるきれいな生地の訪問用を、靴は黒い紐編み上げの西洋式革ブーツを貸す。
私は黒基調の、普段の着物に合わせて右身頃が漆黒の縦縞、左身頃は袖に銀刺繍で梅模様が縫ってあるだけの白の生地。靴は留め具が付いているだけの質素な黒の革ブーツ。
午前九時五十七分。我々は家を後にした。
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