Unbeknownst to me

 パリの郊外。

集落から外れた森の奥深くで、雨に洗われ息絶えそうだった僕を拾った魔女がいた。それはまだ、僕がただの毛の塊の黒猫だった時の話。特異種の瞳を持つというだけで危うく魔法の薬の材料にされそうだったが、なんとか魔女との契約を取り交わし、人間としてこの身を得た。猫であるときから、家で過ごしているうちに、外に出て世界を見たいと思っていた。

それを叶えるために、家を離れ、飼い主の魔女の知人のアパルトマンに居候しながら、パリで人として生きるために勉強と仕事で二年の月日を費やしてしまった。

その知人の営む紳士服ブランドの店で販売員や、常連客のツテで八区のカフェでバリスタもやった。

人間暮らしがこんなにも複雑で、思想、お金、人間同士の関係と様々に悩みはつきないのに、生きるということが幸せだとわかった気がした。


僕はとりとめなく、色々なことを思い出しながら、二人に旅までの経緯を簡単に説明した。

「ずいぶんハイカラな都からお越しで。聴いているだけで愉快爽快」

 コキノは頭上から生えた二本の白く長い兎耳を、こちらにパタパタと傾けながら、口を挟むことなく、僕の話を聞いていた。

 彼の瞳は宝石のガーネットのような鮮やかな赤色で、光を取り込んで輝いている。顔に沿う長さのやわらかい白髪に、透き通る白肌の淡泊な顔立ちで、少年らしいあどけない表情をしているが、なんとなく隔てを感じる。

 服装は、ショーイベントや美術展示でしか見たことのない、オリエントの着物に似た造形だ。左身頃は目と同じような赤、右前身頃はくすんだ黒の縞模様。上着はデザインがちょうど半分に分かれていて、それを裾の広がったヒダの多いボトムに差し込み着重ねしている。首からは大きな懐中時計を下げ、頻繁に時間を気にかけていて落ち着きがない。

 一方で、僕を案内してくれた人は黙って茶を飲みながら、こちらを眺めている。まだ彼は自身のことすら話さない。大きな体を椅子に預けて、両脚を食卓の上に乗せて座っている。

 この國では食卓の上に腰をかけたり、足を乗せたりすることが常識なのだろうか。

「帽子屋、砂糖が足りない。一寸くれないか」

 コキノは振り返って声をかけた。

 帽子屋と呼ばれたその人は、ふっと笑って、ようやく脚を下げて体を起こし、ポットに手を伸ばした。

 蓋をとった。砂糖のポットの中には鼠が寝ている!

 鼠の隣にシルバーのスプーンが刺さっている。帽子屋はなんの躊躇いもなく砂糖を掻き出した。

 どういうことなんだ、

 一体なにが起きている?

コキノが茶の入ったカップを帽子屋の前に差し出す。

帽子屋はスプーンに乗った砂糖を、まるで水を撒くように勢いよく投げた。

当然の結果だが、半分はカップに入り、残りの半分は机の上に散らばった。

 二人は大笑いしている。

この笑い声に反応してか、鼠がハッと目を覚ました。ポットの縁に手をかけて立ち上がったと思えば、

“hundreds and thousands, an hourglass in which the sand is falling,

雑踏、菫灯、唐の土踏んで、チラチラ光る左手に 滔滔と流れる海砂……”

寝言のようなふわふわした口調で歌いながら、小さな左手をひらひらと振った。まもなく鼠はぐらりと倒れ、縁からはみ出たうつ伏せの状態でふたたび眠ってしまった。

 二人は鼠のことなど目もくれず、茶を飲んでいる。

「ノアール君も砂糖が必要か」

「いえ、不要です」

 僕はうまく笑えているだろうか。

 おかしいのは、僕なのか。

「話をもっと聴きたいところだが、現在午後六時二十二分。帰宅の時間をとうに過ぎている。此処が夜の森とはいえ、時間は時間だ。祝いの茶会はお開きとしよう」

 コキノが僕の手から、両手でそっとカップと取り上げた。

「また明日には平々凡々な茶会がある」

「そう平々凡々の」

 帽子屋は脱いでいた帽子を被りなおし、ゆっくり立ち上がった。

 僕の近くまで歩み寄り、にやりと笑った。近くで顔を見るとオリエンタルな雰囲気があるのに鼻が高く、切れ長の目が特徴的で、顔立ちが整っている。髪は黄土色で頭頂からランダムに乱れたスタイル。

 帽子屋もコキノに似た着物のような服をまとっている。長い外套のような着物を羽織り、中にはベストのような洋装を合わせていて、胸元は大きくはだけて見える。よく見るとボトムはコキノと違ってスカートの形状だ。膝下も露わになっているところに、靴の紐がふくらはぎに巻き付いている。ヒールのついたサンダルを履いているので、長身で更に大柄に見える。厚手の外套にサンダル、ちぐはぐの様相で見ているほうが寒く感じる。

「申し遅れたな、俺はカンパニュラ・ブラン。帽子と服を作って生活をしている。君の服は破れや解れが酷くて手直しが必要だ。時間はかかりそうだが、しばらく預かってもよいか」

 ブランは煙管を持ち、おもむろに吸い殻と思わしき火種を左手に乗せて、次の新しいものを皿の中に詰めては、器用に右手でマッチに火をつけるなり、取り出した火種にそのまま着火させ、再度火皿に詰めた。タバコの一種なのだろうか。ただそれと違って臭いはしない。立ち上る煙は少し紫がかって見えるようだった。

「此の着ている服も俺が仕立てた。心配には及ばない」

 目線を合わせるように、僕の顔を覗き込んでくる。僕は静かに、はいと返事した。

 今の僕には旅に必要なものが何もない。魔除けの眼鏡、シャツ、スーツ、靴、帽子、そして旅行鞄も。あるのはこの身だけ。

「お前さんは白兎と身丈幅があまり変わらないようだ、代わりを借りるとよい」

 隣に立っているコキノがまん丸の目を細めてほほ笑んだ。


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