難はみかげ

サンダルウッド

第1話「水滴」

 水滴を見て、直之なおゆきは現実に立ち返った。

 

 冷蔵庫から取り出して間もないビール缶は、ふれるとすぐさま、指が砕けそうなほどの凄絶な刺激をもたらす。

 みたように残酷なその円柱状の物体を、直之は左手に持ちかえてみる。刺激の移動は問題ではなかった。最初に持っていた右手の中指や薬指や人差し指やあるいは手のひらに残った水滴を、直之はまじまじと注視する。

 

 水滴は涙みたいだと、直之は思う。

 成分を同じくしても、しかし同じものはひとつとして存在せず、それぞれに悲しみとか憎しみとか諦念とか、幾多の感情が投影されているように見えた。拭えば形は崩れても、それが生じたという事実までもは払拭できない。

 そうして水滴を視界に入れると、直之はいつも取り返しのつかないことをしたような自責感と、同時にそれ以上の現実感を覚えた。開け放したままの冷蔵庫が、冷気とともに耳ざわりな警告音を振りまいている。


 あの夜の美咲みさきの涙にも、幾多の感情が浮き彫りになっていた。

 

 赤坂見附の中華料理屋――海賓樓かいひんろうという名前の老舗店だ――の窓横の席で、美咲は遠慮会釈なく泣いた。四分の一ほど開いたガラス窓からもれる夜風が、美咲の目元や双頬そうきょうを揺らす。

 慰めとも謝罪ともつかない心持ちで、直之はそっと右手を出して頬にふれる。美咲の頬は、紅涙を振りしぼって熱気を帯びているはずなのに、しかしひんやりとしていた。

 夜風や水滴による錯謬さくびゅうだったにせよ、あのときの頬の冷たさは、直之そのものを麻痺させるには十分なものであった。天井付近に設置された小型テレビから、スガシカオのかすれた歌声が聞こえた。


 冷蔵庫を閉め、ビール缶をあける。人差し指の水滴が、プルタブの先端をわずかに濡らす。ぷしゅっ、という間の抜けた音が、自分のほかにだれもいない室内に大げさに響く。口をつけると確かに喉は冷やされるが、スーパードライの爽やかな苦みは、どれだけ飲んでも過去の遺物のように感じられた。


 土曜日の朝は、直之を憂鬱にする。

 多くの人々がもっとも活気づくであろうその時間帯は、でも直之を心愉こころたのしくはしなかった。愉しくないという言葉自体は、たぶん不正確だろう。気ぜわしい平日から逃れることのできるつかの間のひとときは、不特定多数のサラリーマンにだけでなく、直之にも安堵をもたらす。それは間違いないとしても、では休日を心待ちにする理由になるかといえば、一様には首肯しかねるものであった。


 ベッドサイドワゴンに置かれた矩形くけいの目覚まし時計――デジタル仕様の、縁が白い置き時計だ――が、自室に打々ちょうちょうと鳴りわたる。

 目覚ましの音を聞いて、不快に感じなかったことがなかった。無機質でかん高く、居丈高いたけだかに叱責するようなその音は直之の寿命を確実にゆるやかに縮めてはいようものの、覚醒効果はたいしたものだった。横になったままワゴンの端に手をかけ、引き寄せる。キャスターの回転音は、時計にかき消されて届かない。

 

 手をのばすもわずかに届かず、結局むくりと体を起こす。上部のボタンを押したあと、裏側のスイッチを切り替えてオフにする。

 文字盤を見ると、六時五一分と表示されていた。今日は休みだというのに、昨夜間違えて普段と同じ時間に目覚ましをセットしたらしい。直之はひとつ軽いため息をはいてから、目覚まし時計を所定の場所に戻した。

 

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